ノートの主
渚町役場は、早瀬市役所よりもさらに小さかった。
庁舎の入口を入っただけで、職員の少なさが分かる。開庁時間中にもかかわらず、廊下ですれ違う人はほとんどいなかった。
白井は案内表示を確かめながら、珍しく不安そうな表情を見せた。
「あの人、まだいるかな……」
総務の窓口で名前を尋ねると、奥のデスクから、一人の男性がゆっくりと立ち上がった。
日野隆。
その顔を見た瞬間、白井の表情が明らかに緩んだ。
「まだ、続けてたんですか」
「白井さん。お久しぶりです」
日野は五十代後半。痩せた体つきで、服装も目立たない。デスクの上は整然としていた。
しかし引き出しを開けると、そこだけに、私物のノートが何冊も積まれていた。
日野は一冊を取り出すと、表紙の端を軽く整えてから、皆川たちの前に置いた。
中には、青葉市の職員向けメルマガを印刷したものと、それを渚町の状況に照らし合わせた手書きのメモが、何年分も綴じられていた。
正式な行政文書ではない。
「これは、どなたかに見せたりは」
皆川が尋ねると、日野は首を振った。
「いえ、特には。なんとなく、続けてしまっただけです」
大げさな自負も、続けてきたことへの悲壮感もなかった。
皆川は、その控えめな言い方の奥にあるものを探ろうとした。
「青葉市の仕組みを、渚町に合うように作り直そうと考えて、記録されていたわけではないんですか」
「いえ。そこまでは」
日野はノートに目を落とした。
「ただ、面白くて読んでいたんです。青葉市が次に何をするのか、続きが気になって」
皆川は、これまで聞いてきたものとは違う種類の答えだと感じた。
日野は、仕組みを導入しようとした人ではなかった。
自治体の制度に翻訳しようとした人でもない。
ただ、読み続けていた。
それ自体を面白がって。
白井が、記憶を確かめるようにデスクの並びを見渡した。
「あの時、提案書を出しましたよね。私が作った資料を、課長に」
日野はノートを閉じると、しばらく考えてから答えた。
「ありましたね」
「その後、どうなったか分かりますか」
「正直、よく分かっていないんです」
白井が小さく息を吐いた。
「機構改革の時に課長が替わったから……多分、引継ぎの中で立ち消えになったんだと思う」
その声には、わずかな申し訳なさが含まれていた。
自分が関わらなくなった後のことを、何もできなかった。
そう詫びているようにも聞こえた。
皆川が尋ねた。
「その提案書は、日野さんのノートを、渚町の規模に合わせて制度化しようとしたものですか」
「そのつもりだった」
白井は頷いた。
「でも、完成まではいかなかったと思う。途中で私が転職したから」
皆川は、その言葉で、白井の位置づけを理解した。
湊原市の津久見。
早瀬市の沖田。
そして渚町の白井。
白井もまた、外から得た知見を、その自治体で使える形に作り直そうとした人だった。
ただし、その役割を果たし終える前に、この町を去った。
「提案書は、今も残っていますか」
皆川が聞くと、白井は首を振った。
「多分、もうないと思う。保存期間も過ぎてるし」
日野は、閉じたノートの表紙を指先で軽く叩いた。
「提案がどうなったかは、あまり気にしていませんでした」
白井が日野を見る。
「気にしてなかったんですか」
「これは、提案を通すために書いていたものではないので」
日野は、少しだけ表情を緩めた。
「通っても、通らなくても、読むことは続けていたと思います」
田丸は、その瞬間の日野の表情を見逃さなかった。
後で、メモにこう残した。
日野さんは、ノートを見せている時、少し嬉しそうだった。
でも、誰かに評価されたいという感じではなかった。
自分の宝物を、初めて人にお披露目した時の表情に近かった。
皆川は何も言わず、フィールドノートを開いた。
フィールドノート 渚町・日野氏
日野氏は、翻訳者ではなく「読者」だった。
青葉市の取組を、渚町に導入するために読んでいたのではない。個人的に面白いと感じ、その後の展開を知りたくて読み続けていた。
翻訳者になろうとしたのは、白井先輩だった。
日野氏のノートを基に、渚町の規模に合う公式な提案へ作り直そうとした。しかし、完成前に白井先輩が転職し、提案は組織の中で立ち消えになった。
白井先輩は、湊原市の津久見氏、早瀬市の沖田氏と同じ役割を担おうとしていた。ただし、その役割を完了する前に町を離れた。
ノートと提案書は、同じものではなかった。
提案書は、個人の知見を組織の仕組みに変えるための「翻訳」だった。翻訳は未完のまま、組織には残らなかった。
一方、ノートは、制度化を目的としない個人の読書記録だった。組織を動かすことはなかったが、今も続いている。
伝播には、制度として根付くものだけでなく、誰にも評価されないまま、一人の読者の中で生き続ける形もあるのかもしれない。
この話のFM豆知識
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※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら
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