ep413

自治体FM物語第4巻 › 第13話
第4巻 第13話

ノートの主

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渚町役場は、早瀬市役所よりもさらに小さかった。

庁舎の入口を入っただけで、職員の少なさが分かる。開庁時間中にもかかわらず、廊下ですれ違う人はほとんどいなかった。

白井は案内表示を確かめながら、珍しく不安そうな表情を見せた。

「あの人、まだいるかな……」

総務の窓口で名前を尋ねると、奥のデスクから、一人の男性がゆっくりと立ち上がった。

日野隆。

その顔を見た瞬間、白井の表情が明らかに緩んだ。

「まだ、続けてたんですか」

「白井さん。お久しぶりです」

日野は五十代後半。痩せた体つきで、服装も目立たない。デスクの上は整然としていた。

しかし引き出しを開けると、そこだけに、私物のノートが何冊も積まれていた。

日野は一冊を取り出すと、表紙の端を軽く整えてから、皆川たちの前に置いた。

中には、青葉市の職員向けメルマガを印刷したものと、それを渚町の状況に照らし合わせた手書きのメモが、何年分も綴じられていた。

正式な行政文書ではない。

「これは、どなたかに見せたりは」

皆川が尋ねると、日野は首を振った。

「いえ、特には。なんとなく、続けてしまっただけです」

大げさな自負も、続けてきたことへの悲壮感もなかった。

皆川は、その控えめな言い方の奥にあるものを探ろうとした。

「青葉市の仕組みを、渚町に合うように作り直そうと考えて、記録されていたわけではないんですか」

「いえ。そこまでは」

日野はノートに目を落とした。

「ただ、面白くて読んでいたんです。青葉市が次に何をするのか、続きが気になって」

皆川は、これまで聞いてきたものとは違う種類の答えだと感じた。

日野は、仕組みを導入しようとした人ではなかった。

自治体の制度に翻訳しようとした人でもない。

ただ、読み続けていた。

それ自体を面白がって。

白井が、記憶を確かめるようにデスクの並びを見渡した。

「あの時、提案書を出しましたよね。私が作った資料を、課長に」

日野はノートを閉じると、しばらく考えてから答えた。

「ありましたね」

「その後、どうなったか分かりますか」

「正直、よく分かっていないんです」

白井が小さく息を吐いた。

「機構改革の時に課長が替わったから……多分、引継ぎの中で立ち消えになったんだと思う」

その声には、わずかな申し訳なさが含まれていた。

自分が関わらなくなった後のことを、何もできなかった。

そう詫びているようにも聞こえた。

皆川が尋ねた。

「その提案書は、日野さんのノートを、渚町の規模に合わせて制度化しようとしたものですか」

「そのつもりだった」

白井は頷いた。

「でも、完成まではいかなかったと思う。途中で私が転職したから」

皆川は、その言葉で、白井の位置づけを理解した。

湊原市の津久見。

早瀬市の沖田。

そして渚町の白井。

白井もまた、外から得た知見を、その自治体で使える形に作り直そうとした人だった。

ただし、その役割を果たし終える前に、この町を去った。

「提案書は、今も残っていますか」

皆川が聞くと、白井は首を振った。

「多分、もうないと思う。保存期間も過ぎてるし」

日野は、閉じたノートの表紙を指先で軽く叩いた。

「提案がどうなったかは、あまり気にしていませんでした」

白井が日野を見る。

「気にしてなかったんですか」

「これは、提案を通すために書いていたものではないので」

日野は、少しだけ表情を緩めた。

「通っても、通らなくても、読むことは続けていたと思います」

田丸は、その瞬間の日野の表情を見逃さなかった。

後で、メモにこう残した。

日野さんは、ノートを見せている時、少し嬉しそうだった。

でも、誰かに評価されたいという感じではなかった。

自分の宝物を、初めて人にお披露目した時の表情に近かった。

皆川は何も言わず、フィールドノートを開いた。

フィールドノート 渚町・日野氏

日野氏は、翻訳者ではなく「読者」だった。

青葉市の取組を、渚町に導入するために読んでいたのではない。個人的に面白いと感じ、その後の展開を知りたくて読み続けていた。

翻訳者になろうとしたのは、白井先輩だった。

日野氏のノートを基に、渚町の規模に合う公式な提案へ作り直そうとした。しかし、完成前に白井先輩が転職し、提案は組織の中で立ち消えになった。

白井先輩は、湊原市の津久見氏、早瀬市の沖田氏と同じ役割を担おうとしていた。ただし、その役割を完了する前に町を離れた。

ノートと提案書は、同じものではなかった。

提案書は、個人の知見を組織の仕組みに変えるための「翻訳」だった。翻訳は未完のまま、組織には残らなかった。

一方、ノートは、制度化を目的としない個人の読書記録だった。組織を動かすことはなかったが、今も続いている。

伝播には、制度として根付くものだけでなく、誰にも評価されないまま、一人の読者の中で生き続ける形もあるのかもしれない。

この話のFM豆知識

(豆知識は準備中)

つづく

※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら