梶原
梶原(五十代半ば)は、皆川が想像していたよりも、ずっと快活な印象の人物だった。
捲り上げたシャツの袖から見える腕は、日に焼けている。現場へ出ることが多いのだろうか、と皆川は思った。
応接室に入ると、梶原は名刺を交換するより先に、皆川たちの研究について尋ねてきた。
「青葉市さんの取組が、他の自治体にどう広がったかを調べている、という話でしたよね」
「はい。湊原市さんが、青葉市の取組を参考にされた経緯を、お聞きできればと思っています」
「経緯ですか」
梶原は少し考えてから答えた。
「何か特別な出来事があったのかと聞かれると、そういうものはありませんね」
「では、何がきっかけだったんですか」
「こちらから電話したんです。青葉市の職員向けメルマガを読んで」
皆川は、すぐに疑問を口にした。
「そのメルマガは、どこで読まれたんですか」
「検索していて、たまたま見つけました。青葉市のホームページに、バックナンバーが公開されていたんです。それを読んで、こちらから連絡しました。青葉市から声を掛けられたわけではありません」
その言葉は、皆川の中で空いたままになっていた場所に、ぴたりとはまった。
長谷が言っていた。
――うちからは何も宣伝していません。向こうから勝手に連絡してきます。
あの時は、なぜ外部から連絡が来るのか、その経路が分からなかった。長谷自身も詳しく説明しなかったため、皆川は発言の意味を保留していた。
今、目の前にいる梶原が、その「向こう」だった。
長谷の証言と、梶原の証言。
二人は、同じ出来事を、まったく別の場所から見ていた。
青葉市は、積極的に広めようとしていなかった。ただ、自分たちの取組をメルマガとして公開していた。
湊原市は、それを自ら見つけ、読み、連絡した。
伝播は確かに存在した。
しかし、発信した側は、それを発信とは認識していない。受け取った側が、必要な情報を探し出し、自ら動いたことで生じた伝播だった。
接触までの経緯が見えたところで、皆川は次の段階へ質問を移した。
「青葉市さんに連絡した後、その仕組みを、そのまま取り入れたんですか」
梶原は、はっきりと首を横に振った。
「いえ。そのままではありません。青葉市のやり方をコピーしても、うちの人数では回りませんから」
「具体的には、どの部分を変えたんですか」
「メルマガに書かれていた考え方は参考にしました。ただ、項目や手順は、湊原市で使える形に作り直しています」
「青葉市さんから、具体的な制度設計を教えてもらったわけではないんですね」
「そうですね。教えてもらった、という言い方とも少し違います」
梶原は、言葉を探しながら続けた。
「考え方を持ち帰って、自分たちの条件に合わせた、という方が近いと思います。もっとも、項目や手順を簡素化する作業までは、うちだけではできなかったので、そこは外部に委託しました」
皆川は発言を記録しながら、田丸と目を合わせた。
田丸も、何かに気づいた顔をしている。
「連絡したのは湊原市側だった」という事実。
そして、「青葉市の制度を、そのまま導入したわけではない」という事実。
この二つが重なって、初めて伝播の輪郭が見えてきた。
青葉市から湊原市へ、情報は一方向に流れている。
しかし、制度そのものが移されたわけではない。
受け取った側が、自分たちの人数、組織、予算に合わせて、考え方を作り変えている。
それはコピーではなく、翻訳に近かった。
皆川はフィールドノートを開いた。
フィールドノート⑦ 湊原市・梶原氏
軸1 接触のきっかけ
梶原氏「こちらから電話した」
青葉市のメルマガを検索で見つけ、湊原市側から連絡した。
長谷氏の「向こうから勝手に連絡してくる」という発言と表裏をなす証言。
青葉市は積極的に伝えようとしていない。ただし、情報は公開していた。
湊原市は、自ら探し、読み、接触した。
仮説4:知見の伝播は、発信者の働きかけではなく、受信者の能動的な探索によって始まる場合がある。
軸2 コピーか翻訳か
青葉市の仕組みを、そのまま導入したわけではない。
持ち帰ったのは制度の形式ではなく、考え方だった。
項目や手順は、湊原市の人員規模や実務条件に合わせて簡素化されている。
制度の導入には、外部支援も使われている。
仮説5:知見は、そのまま複製されるのではなく、受け手の条件に応じて翻訳されることで定着する。
皆川は、ペンを止めた。
これまで、分からないことに出会うたびに、口癖のように言ってきた。
――なるほど、そうなんですね。
相手の言葉を受け止めるには便利な言葉だった。だが、受け止めたところで思考を止めてしまう言葉でもあった。
長谷と梶原の証言は、片方だけでは意味を持たなかった。
二つを並べ、違いを確かめ、間にある経路を考えたことで、ようやく伝播の仕組みが見え始めた。
皆川は、フィールドノートの最後に書き加えた。
今日から、口癖をやめる。
「なるほど、そうなんですね」だけでは、もう足りない。
分かったように受け止めるのではなく、何と何がつながったのか、何がまだ分からないのかを、その都度、言葉にする。
まだ、分からないことの方が、はるかに多い。
この話のFM豆知識
(豆知識は準備中)
※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら
一般財団法人 建築保全センター