千々岩・宮野
白井の案内で、皆川と田丸は同じ庁舎の別の階へ移動した。
子育て支援課のフロアは、施設台帳が眠っていた資料室とは対照的だった。壁には明るい色のポスターが貼られ、窓口には子育て支援制度のパンフレットや、職員が手作りした案内表が並んでいる。職員と来庁者の声が絶えず、フロア全体に人の動きがあった。
「沖田さん、お元気そうですね」
「白井さん、お久しぶりです」
沖田薫は、四十代前半の子育て支援課主任だった。中肉中背で、服装にも振る舞いにも目立ったところはない。だが、デスクの上には子ども向けのパンフレットや、色分けされた手作りの案内表が整然と並べられていた。
白井が皆川たちの訪問理由を説明すると、沖田は身構える様子を見せなかった。むしろ、懐かしい話を聞いたように表情を和らげた。
「青葉市さんの白書は、最初に見た時、項目が多すぎて、うちでは無理だと思ったんです」
「そのままでは運用できなかった、ということですか」
「はい。だから、早瀬市の人数で回せる分だけ項目を絞りました。判断記録も、うちなりの簡単な形に作り直して」
皆川は、湊原市で津久見から聞いた話を思い出した。
コピーではなく、規模に合わせて作り直す。ここにも、同じ構図があった。
「それは、沖田さんがお一人で作り直されたんですか」
「ほとんど一人でしたね」
沖田は、特別なことではないという調子で答えた。
「最初の二、三年は、それでちゃんと回っていました。項目を減らした分、更新もしやすくなりましたし、施設も私一人で見て回れる数でしたから」
「大変ではありませんでしたか」
「大変ではありましたけど、あの仕事、好きだったんですよ」
沖田は少し笑った。
「データを集めて、施設ごとの状態を並べて、白書にする。性に合っていたんでしょうね」
皆川は、現在の仕事について尋ねた。
「今のお仕事は、どうですか」
沖田の表情が、さらに明るくなった。
「ここにいます」
少し前のめりになりながら、デスクの上のパンフレットを一枚手に取った。
「前の仕事とは全然違いますけど、子育て支援も自分には合っていると思います。相談を受けて、制度につなげたら、その日のうちに『助かりました』と言ってもらえることもあるので」
沖田は、パンフレットを元の位置に戻した。
「あの台帳の仕事が止まったことは、惜しいと思っています。でも、今の仕事を疎かにしてまで続けることはできません。正直、手が回らないです」
責任から逃れようとしている口調ではなかった。
未練がないわけでもない。ただ、今の場所で担うべき仕事を選び、その仕事に誠実であろうとしている。それだけだった。
「沖田さんが異動された後、仕組みを引き継いだ方はいらっしゃったんですか」
沖田は、すぐに答えた。
「いなかったと思います」
「引継ぎ自体は、されなかったんでしょうか」
「資料は残しました。手順も一応、書きました。でも、次に誰が担当するのかまでは決まっていませんでした」
沖田は、少し考えてから続けた。
「私一人で作った仕組みだったので、私がいなくなった後に、誰が見るのかが決まっていなかったんです」
仕組みは、一度、確かに動いていた。
早瀬市の規模に合わせて翻訳され、現場で使える形にまで整えられていた。
だが、担い手は引き継がれなかった。
皆川は、もう一歩踏み込んだ。
「今、戻ってほしいと言われたら――」
「戻らないと思います」
沖田は、皆川が言い終える前に、迷いなく答えた。
「今の仕事の方が、自分には合っていますから」
皆川は、それ以上聞かなかった。
田丸は、沖田が子育て支援について語っていた時の表情を、注意深く見ていた。
後に、田丸はメモにこう残した。
〈沖田さん、子育て支援の話をしている時、本当に満足そうだった。台帳を止めたことへの後ろめたさは、ほとんど感じられなかった。無責任だからではない。今の仕事にも、同じくらい真剣だからだと思う〉
資料室に戻ると、白井が市長交代後の経緯を説明した。
「前の市長が退任したあと、新しい市長が行政の効率化を掲げました。施設台帳の担当も、専任から兼任に変わりました。予算も見直しの対象になって」
「それは、誰かの判断ミスだったということですか」
皆川が尋ねると、白井はすぐに首を振った。
「誰のせいでもないんです。こういうのは」
いつもの白井らしい、断定を避けた淡々とした口調だった。
しかし、その言葉が持つ重さは、これまでの面談で聞いたどの言葉とも違っていた。
誰かが怠けたわけではない。
沖田は、施設台帳の仕事に誠実だった。
異動後は、子育て支援の仕事に誠実だった。
新しい市長も、限られた人員と財源の中で、行政を効率化しようとした。
兼任となった職員も、自身に割り当てられた仕事をこなしていた。
それぞれが、自身の役割を果たそうとしていた。
それでも、仕組みは止まった。
「専任担当を置かなくなった時点で、更新をやめると決めたわけではないんですよね」
「誰も、やめるとは決めていません」
白井が答えた。
「続けるとも、決めませんでした」
その言葉で、皆川には構造が見えた気がした。
仕組みを廃止した人はいない。
ただ、誰が担うかを決めないまま、担当と予算を薄く分散させた。
その結果、全員の仕事になり、誰の仕事でもなくなった。
皆川は、すぐには研究上の言葉に置き換えられなかった。
フィールドノートを開き、これまでとは少し違う書き方で、その日の感触を残した。
フィールドノート 早瀬市・沖田氏/市長交代
沖田氏は、湊原市の津久見氏と同じ役割を果たしていた。
青葉市の仕組みを、早瀬市の人員と施設規模に合わせて作り直した「翻訳者」であり、同時に日々の更新を担う「運用者」でもあった。
そのため、導入後の二、三年間は、仕組みが実際に機能していた。
しかし、担い手は一人しかいなかった。
沖田氏の異動後、資料と手順は残ったが、次に誰が担うかは決められていなかった。仕組みは失われたのではなく、見る人がいなくなった。
沖田氏は、台帳の仕事に愛着を持っている。一方で、現在の子育て支援の仕事にも、迷いなく向き合っている。
無責任でも、不誠実でもない。
誠実さを向ける先が、組織の異動によって変わった。
市長交代後の「効率化」により、専任担当は兼任となり、予算も見直された。ただし、誰かが制度を廃止したわけではない。
白井氏:「誰のせいでもないんです」
これは責任を曖昧にする言葉ではなく、実務者の実感として響いた。
仮説6:仕組みの定着には、翻訳者が存在するだけでは足りない。役割が個人から組織へ移され、次の担い手が明示されなければ、異動によって運用は途切れる。
追加の問い:誰にも悪意がなく、全員がそれぞれの仕事に誠実であっても、なぜ仕組みは止まるのか。
この話のFM豆知識
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※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら
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