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第3巻 エピローグ

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住民説明会から、一週間が経っていた。

津久見は、湊原市役所の会議室で、最後の報告書を綴じていた。表紙には「公共施設再編方針・最終版」とある。57棟のうち、廃止23棟、転換12棟、維持22棟。数字は確定済みだ。だが、その下の一文だけは、何度書き直した。今でも、他に良い言葉があるように感じる。

「本方針における『転換』とは、行政が用途を変えて維持することのみを指さない。地域運営組織、民間事業者その他の主体への移行を含む」

その一文だけが、最後まで書き直し続けた言葉だった。今日、納品すれば、もう言葉は変えられない。法と数字だけで答えを出していた頃の自分なら、この一文を書く必要すら感じなかっただろう。

「次の任地は、決まったんですか」

梶原が、報告書を受け取りながら聞いた。

「まだです。RFSCへの依頼の中で、湊原と似た財政力指数の自治体が、もう三つ控えています」

「三つも……それは、こんなに大変な仕事を、また」

「大変かもしれません。これまでは、枠の中だけが対象でした。でも、これからは、湊原での経験を糧に、枠の外にあるものも背負うつもりです。どちらか一方だけでは、多くの町を、本当の意味では救えません。港ノ浦のような場合には、個別に踏み込みます」

津久見は、報告書を閉じた。

「一つだけ、心残りがあります」

「なんでしょう」

「今回は、宇田川先生の取組は代替できませんでした。ただ、同じことが、どこかで起きている以上、どこかで、答えの断片が見つかると思っています」

「それは、いつになるか分からない話ですね」

「そうかもしれません。ですが、見つけたら、また持ってきます」

梶原は、頷きながら、数日前の市長への報告を思い出していた。

港ノ浦診療所の件で、事前に、津久見が梶原に示したのは、外部の制度ではなかった。

「生存基盤に直結する施設に限り、移行期間中の運営経費を、市が直接負担する案を諮ります」

「温泉の件と、矛盾しませんか」

梶原が聞くと、津久見は頷いた。

「矛盾しません。温泉は生存基盤ではないという理由で、リスクを負わないと決めました。診療所は逆です。生存基盤だからこそ、負う理由があります」

西條市長は、梶原からの説明を聞き終えると、資料に目を落としたまま、しばらく黙っていた。

「温泉とは、逆の判断をする、ということだね」

「はい。生存基盤かどうかで、線を引きます」

「分かった。予算は、来月の議会に諮る」

財源は市の一般財源から、移行期間限定の特例支出として設計する。巡回診療とオンライン診療を組み合わせれば、医療そのものは維持できる。自治体の判断だけで完結する、法的にも問題のない特殊解だった。

梶原は思い出したように、津久見に問いかけた。

「来島さんは、もう湊原を出たんですか」

「いえ。まだ、こっちにいます」

津久見が窓の外を見ると、駐車場の隅に、来島の車が見えた。

来島礼子は、その日の午前中、港ノ浦地区に顔を出していた。ガソリンスタンドだった建物は、もう防災拠点としての改修工事が始まっている。足場が組まれ、看板はすでに外されていた。「宮地商店」の文字が消えた壁は、まだ塗装されていない、下塗りのコンクリートのままだった。

「来てくれたのか」

浜田一郎が、現場の脇から声をかけた。地域運営組織の設立準備で、毎日のように現場に顔を出している。

「運営組織の方は、どうですか」

「役員は決まった。会計は田所さん、施設管理は宮地さん。あんたが描いた図の通りだ」

「私が決めたわけではありません。図の通り、というなら、皆さんが、枠に名前を入れてくださった結果です」

「その枠を作ったのは、あんただ」

浜田が、少し笑った。来島は、足場の向こうに見える建物を見上げた。

「来島さんの仕事は、これで終わりですか」

「ここでの設計は、終わりました。ただ」

「ただ、何ですか」

「枠を作ったからといって、その枠が本当にうまく機能するかどうかは、まだ分かりません」

「うまく機能するかどうか、というと、これから先のことですよね」

浜田がそう聞くと、来島は頷いた。

「ええ。会計の引き継ぎ、施設管理の負担、運営費の集め方。図の上では決められても、実際にやってみると、うまくいかないことも出てくるはずです」

「うまくいかなかったら、どうするんだ」

「それを見届けたいので、これからも来ます。住むわけではありません。ただ、半年に一度、一年に一度でも、ここに来て、枠がどう機能しているかを見させてください」

「フォローアップ、ってやつか」

浜田が言うと、来島は少し笑った。

「そう呼んでもらってもいいです。私自身のためでもあります。自分が作った枠組みが、本当に機能するのか、それを見届けないと、私も、次の町に進めません」

「次の現場、というのは」

「分かりません。それは、津久見さんと同じです」

来島は、剥き出しのコンクリートの壁を、もう一度見た。半年前、市役所で津久見と顔を合わせたときの気まずさはもうない。自分たちが並んで提示した二つの案が住民を混乱させた、という過去は消えない。ただ、今回は、その過去を踏まえた上で、進め方そのものを変えることができた。それで十分だった。

夕方、梶原誠一は、本庁舎の棚から、もう一度、地区集会所の補修要望書の束を取り出していた。三年分積まれていたうちの一枚を、今度は自分の判断で、来年度予算の最優先リストに移した。

「課長」

林係長が、隣に来た。

「これ、本当に最優先にするんですか」

「するつもりだ」

「予算は厳しいですよ」

「分かってる。だから、もう一つ、別の案も用意した」

梶原は、もう一枚の資料を取り出した。地域運営組織による維持管理の提案書だった。

「これは」

「ガソリンスタンドの件で、津久見さんと来島さんがやったことを、自分なりに整理してみた。すべての施設に使えるわけじゃない。でも、検討する価値はある」

林は、その資料を、しばらく黙って読んでいた。

「課長、変わりましたね」

「変わった、というのは」

「前は、こういう資料、誰かが作るのを待ってた気がします」

梶原は、窓の外、港ノ浦地区の方向を見た。山に隠れて、ここからは見えない。だが、その向こうで、宮地が、浜田が、田所が、それぞれの仕事を続けていることを、梶原は知っていた。

「待つのをやめた、というだけだ」

梶原は、それだけ答えた。

「やめた、というのは、もう様子を見ない、ということですか」

林が、その言葉に少し笑いながら聞いた。

「いや。様子は、これからも見る。ただ、見るだけじゃなく、見ながら動く」

その言葉を、心の中で、もう一度繰り返した。決めることの怖さは、これからも消えないだろう。だが、その怖さを抱えたまま動く、という選択肢を、手放すこともないだろう。

津久見はその夜、次の自治体へと出発した。新たな問題に取り組むために。車窓から見える湊原市の灯りが、少しずつ遠ざかっていった。

来島は、港ノ浦地区の先を見届けることにした。住むわけではない。だが、自分が用意した枠組みが、この地区でどう動いていくのかを、これからも見続ける。

梶原は、本庁舎に一人残り、来年度の予算編成資料に向かっていた。見ながら動く、という新しい構えを、何度も自分の中に定着させるように。

幾つもの建物が消えた。

けれど、その町から暮らしが消えたわけではなかった。

残ったのは、

建物ではなく、

人が引き継ぐ仕組みだった。

この話のFM豆知識

(豆知識は準備中)

つづく

※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら