残らなかった町
旧里浦町の旧庁舎を訪れた。旧里浦町には、57棟の方針の検討に含まれる施設はないが、閉鎖した施設の事例確認として、津久見がリストに加えた。旧里浦町の記録が、ほとんど残っていなかったのも理由だった。
「人口、390人から170人」
津久見が、古い資料を読み上げた。「10年間の減少数です」
「10年で……それは、何があったんですか」
梶原の問いに、津久見が資料をめくった。
「記録は残っていません」
津久見は資料を閉じた。
「何があったか分からない」
「それ自体が、この町に残った記録なんだと思います」
梶原は、手にした資料の中の一文に、目を止めた。会議録の最後のページ。「住民への説明、次回に持ち越し」。それだけが書かれていた。
その一文から梶原は目を外せなくなった。次回に持ち越し。自分も、何度も書いてきた言葉だった。先送りではない。次回、ちゃんと説明すればいい。そう思ってきた。だが、その次回が、なかったとしたら。
「次回の記録は、どこですか」
梶原の声には、動揺が抑えきれず滲み出していた。津久見は資料を探した。
「ありません。次回が、来なかったんだと思います」
津久見の言葉が、梶原の心の中の何かを打ち砕いた。行政側には次回があった。でも住民たちにはなかった。「ありません」その一言は、これまで自分が積み重ねてきた「様子を見た」すべての事案に、重なって聞こえた。
その資料は、港ノ浦診療所を思い出させた。
「私がいなくなったあとを、誰も考えていない」
宇田川の言葉だった。
旧里浦町でも同じだった。
誰かが考えるはずだった。
誰かが説明するはずだった。
そして、その誰かはいなくなった。
津久見はまだ答えを持っていない。
診療所を残す方法も。
財源も。
住民との約束も。
何一つ完成していない。
だが、来島も与条件を揃えるのは困難だと言っていた。もし、自分が考えるのを止めてしまえば、診療所は、いつかくる閉鎖を待つしかなくなる。残された時間も、そう多くはなかった。
それでも、一つだけ決めたことがある。
答えがないまま閉じることだけは、もうしない。
その夜、梶原は持ち帰った資料と共に一人で庁舎に残っていた。旧里浦町の十年間が、頭の中で何度も繰り返されていた。390人から170人。誰かが、どこかで、次回を約束した。それは果たされなかった。
「先送りにも、結果は存在した」
声に出して、初めてそう言った。声に出した瞬間、これまで自分が避けてきたものが、はっきりと見えた気がした。
翌日。
梶原は青葉市へ電話をかけた。
図書館の件で話した、折原だった。
「一つ聞いていいですか」
「はい」
「施設を廃止した判断は」
少し間を置いて言った。
「後から説明できましたか」
折原は少し考えた。
「誰に説明するかで、答えは変わります」
梶原は黙る。
折原が続けた。
「教育総務課の宮野課長補佐が、よく言う言葉があります」
「それ、誰に説明するんですか」
その問いは、
受話器越しなのに、
梶原自身へ向けられているようだった。
「もう一つ」
梶原が聞いた。
「判断記録は」
「どう残していますか」
折原は笑った。
「残すことじゃありません」
「残ってますよ、と言える状態にすることです」
「違いがありますか」
「あります」
「書類庫に眠っているだけでは、残っているとは言えません」
「必要な人が」
「必要な時に」
「すぐ取り出せる」
「そこまでできて、初めて残っていると言えます」
梶原は、その言葉を、何度も繰り返した。
電話を切ったあとも、怖さは消えなかった。
決めることは、今までと同じように怖かった。
でも、決めないことにも結果がある。
そのことだけは、もう分かってしまった。
梶原は、初めて、怖さを抱えたまま前へ進むことを選んだ。
五十七棟の再編方針は、まもなく最後の検証を迎えようとしていた。
この話のFM豆知識
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※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら
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