残ってますよ
折原悠斗が地下書庫へ降りたのは、午後の早い時間だった。
今日も、廃棄予定文書の確認だった。
六階の行政管理課から地下書庫まで何度も往復していると、それだけで半日が終わる。そういう仕事が週に何度かある。
保存期間が満了した行政文書の一覧と、書庫に並ぶファイルを照合する。廃棄してよい文書か、保存期間の記載に誤りがないか、別の簿冊へ綴じるべきものが混じっていないかを確認する。
地味で、誰にも感謝されない作業だ。
折原は、それが嫌いではなかった。
文書には、誰かが何かを考えた痕跡が残っている。
会議録。
予算要求の理由書。
事業の完了報告。
文書の名称も、書かれた目的も違う。
それでも、当時の担当者が何を見て、何を決めたのかが残されているという点では、折原にとって同じものだった。
自分より前に働いていた誰かが、顔も知らない次の担当者のために残してくれたもの。
折原がそう思うようになったのは、配属二年目の春だった。
行政管理課へ異動して間もない頃、補助金の申請手続で判断に迷ったことがある。
前任の係長は既に別の部署へ異動していた。上司の課長補佐は、議会対応で手が離せない。
誰に確認すればよいのかわからないまま、折原は過去の書類を探して地下書庫へ降りた。
古い棚の奥に、一冊の薄いノートがあった。
表紙には、
「事務引継 行政管理課業務改善担当」
とだけ書かれていた。
中を開くと、几帳面な字で、担当業務の概要と、過去に判断へ迷った案件が記録されていた。
何が問題になったのか。
なぜ、その判断をしたのか。
どの方法がうまくいかなかったのか。
次の担当者には、何を確認してほしいのか。
折原が探していた補助金手続の注意点も、そのノートに書かれていた。
書いた人物の名前はなかった。
顔も知らない。
今も市役所にいるのかさえ、わからない。
だが、そのノートがなければ、折原はあの時、誤った処理をしていたかもしれなかった。
書庫にある資料について所在を尋ねられると、
「残ってますよ」
と答えるのが折原の口癖になったのは、それからだった。
誰かが残してくれた。
だから、自分も残す。
折原にとっては、それだけのことだった。
六階へ戻ると、文書管理キャビネットの前に人が立っていた。
防災棟にある教育委員会から本庁舎まで来る職員は、たいてい用件がはっきりしている。
わざわざ連絡通路を渡って来るのは、電話やメールだけでは済まない話がある時だ。
「折原さん」
宮野彩乃が声をかけてきた。
教育総務課課長補佐。
折原より三歳年上で、議会答弁の調整から保護者対応まで、教育委員会の厄介な案件を引き受ける人物として庁内では知られている。
「少しいいですか」
「どうぞ」
折原は、キャビネットの前に置かれた椅子を引いた。
宮野が持ってきたのは、学校施設改修の優先順位に関する資料だった。
「これを見てほしいんです」
A4用紙に、市内の小中学校が一覧で並んでいる。
建築年度。
劣化度の評価点。
将来需要。
改修の優先順位。
「この順位なんですが」
宮野が資料の中ほどを指した。
「北小学校が七番目になっています」
「はい」
「でも、実際に現場へ行くと、北小の方が東中より明らかに状態が悪いんです。外壁のひび割れ方が違います。屋上防水にも浮きが出ています」
「個別施設計画の評価に基づく順位ですよね」
「それはわかっています」
宮野は答えた。
「問題は、なぜ北小がこの点数になったのか、どこにも書かれていないことです」
折原は資料を受け取った。
個別施設計画。
施設評価表。
劣化調査結果報告書。
必要と思われる書類は、すべて揃っていた。
「計画書は残ってますよ」
折原は言った。
「でも、北小をこの点数にした理由がないんです」
「はい」
「当時の担当者は退職しています。課長も、委員会のメンバーも異動している。誰に聞いても、なぜこの順位になったのかわかりません」
折原は施設評価表を見た。
劣化度。
利用状況。
耐震性能。
将来需要。
各項目に点数が入り、その合計で優先順位が決められている。
計算上は、確かに北小より東中の方が高い。
だが、なぜ北小の劣化度がこの点数なのか。
なぜ、利用状況にこの重みを与えたのか。
表だけを見ても、わからない。
「残ってますよ、数字は」
折原は言った。
「でも、理由は残っていませんね」
「そうなんです」
宮野の口調は強かったが、声は静かだった。
怒りをぶつけているのではない。
確認できる事実を、一つずつ置いている。
折原には、そう聞こえた。
翌日から、折原は関係資料を調べ始めた。
委員会の議事録。
予算書。
劣化調査の報告書。
評価会議の記録。
行政管理課のキャビネットと地下書庫を往復しながら、十年前の個別施設計画に関係する文書を、片端から確認した。
資料はあった。
個別施設計画策定委員会の議事録。
劣化診断を行った事業者の報告書。
各学校の現地調査写真。
評価点の入力様式。
保存すべき文書は、ほとんど残されていた。
評価点の算出には、複数の係数が使われている。
劣化度を何割とするか。
利用状況を何割とするか。
将来需要をどの程度反映するか。
ただし、なぜその係数を採用したのかは、どこにも書かれていなかった。
委員会の議事録には、
「評価方法については、別途事務局案を提示する」
と記録されている。
だが、その事務局案を探しても、どれが最終版なのかわからない。
共有フォルダには、
「評価係数案」
「評価係数案_修正」
「評価係数案_最終」
「評価係数案_最終_修正後」
と似た名前のファイルが並んでいた。
更新日時も近い。
実際に委員会へ提示され、最終的に採用されたファイルがどれなのか、確認できなかった。
折原が地下書庫で資料を探していた午後、背後から声をかけられた。
「何を探してる」
管財課長の長谷巡だった。
同じ六階で働いているため、廊下ではよくすれ違う。
だが、直接話したことはほとんどなかった。
「施設評価の根拠資料です。十年前の個別施設計画策定時のもので」
「係数の話か」
「はい。なぜ、その係数にしたのかを探しています」
「そこにはないと思う」
長谷はそう言うと、少し離れた棚へ歩いた。
分厚いファイルが並んでいる。
背表紙には、
「施設管理業務記録」
と書かれていた。
長谷は、そのうちの一冊を引き出し、数ページめくった。
「評価係数の決め方は、当時も揉めた」
「ご存じなんですか」
「委員会でも意見が割れた。劣化を重く見るか、利用状況を重く見るかで、各部局の考えが違った」
「最終的には、どう決まったんですか」
「事務局預かりになった」
長谷は答えた。
「担当者が各委員の意見を整理して、最終案を作ったはずだ」
「その記録は?」
「俺は見たことがない」
長谷はファイルを閉じた。
「当時の担当者から、後で聞いた話だ」
ファイルを棚へ戻す。
その時、折原は背表紙の下部に、小さな文字が書かれていることに気づいた。
――失敗記録。
折原の視線に気づき、長谷が言った。
「俺が判断を間違えたことや、後から前提が変わった案件を書いてある」
「なぜ、地下書庫に?」
「執務室に置くほど頻繁には見ないからだ」
長谷は答えた。
「隠すつもりはない。だが、正式な引継書として作ったものでもない」
「誰かに読ませるためのものではない?」
「自分のために書き始めた」
長谷は棚を見た。
「ただ、必要な人がいれば、読めばいい」
それだけ言うと、長谷は地下書庫を出ていった。
折原は、棚に戻されたファイルを見た。
几帳面とは言い難い文字で、
「失敗記録」
と書かれている。
折原は、その場でしばらく動かなかった。
三日後。
折原は、調査結果を宮野へ報告した。
「評価係数の根拠となる最終文書は、確認できませんでした」
「そうですか」
「個別施設計画も、委員会議事録も、劣化調査報告書も残っています。保存期間内の行政文書は、適切に保存されていました」
「でも、判断理由はなかった」
「はい」
折原は資料を机へ置いた。
「なぜその係数を採用したのか。どの案を最終版としたのか。北小と東中の評価差を、当時どのように判断したのか。その部分は文書化されていません」
宮野は、しばらく資料を見ていた。
「北小の住民説明会が、来月あります」
「はい」
「そこで、住民から優先順位の根拠を聞かれたら、私はどう答えればいいでしょう」
折原は答えられなかった。
評価点は残っている。
計算式も、入力された数字もある。
だが、なぜその数字を選んだのかを説明できない。
説明できない順位を根拠に、北小の改修が後回しにされている。
「現行計画の評価点に基づいています、としか言えません」
折原は答えた。
「でも、それでは説明になりませんね」
「はい」
宮野は資料を閉じた。
「理由がわからない数字で、住民に納得してもらうのは無理です」
「そう思います」
「わかりました。教育委員会でも、現状を再確認します」
宮野が席を立つ。
「調べてくださって、ありがとうございました」
「いえ」
宮野が帰ったあと、折原はしばらく机上の資料を見ていた。
その日の夕方。
千々岩収が、行政管理課の前を通りかかった。
秘書課は七階にある。
課長の千々岩が六階へ来るのは珍しい。
折原がそう思っていると、千々岩が足を止めた。
「何を探してる」
折原は机上の資料を見た。
「理由です」
「何の理由だ」
「学校施設の評価点を、なぜその点数にしたのか。その判断理由を探しています」
「見つかったか」
「いいえ」
千々岩は、その答えを聞いて、かすかに表情を動かした。
笑ったのか。
ため息をついたのか。
折原には判断できなかった。
「それが、この市役所の一番大きな問題かもしれんな」
「判断理由が残っていないことですか」
「結果だけ残し、判断した人間の考えを消してしまうことだ」
千々岩はそれだけ言うと、廊下を歩いていった。
その夜。
折原は一人、行政管理課に残って資料を読んでいた。
個別施設計画の最終版。
百二十ページ。
施設の現状。
老朽化の程度。
将来の方向性。
改修の優先順位。
多くの人が時間をかけて作ったことがわかる、丁寧な計画書だった。
それでも、何度読んでも係数の理由は出てこない。
評価点は載っている。
順位も書かれている。
だが、その点数を採用した根拠も、他の選択肢を退けた理由も残っていない。
折原は、自分のノートを開いた。
今日わかったことを書き始める。
資料には、数字が残っていた。
しかし、なぜその数字になったのかは残っていなかった。
当時の担当者が何を見て、何に迷い、何を選ばなかったのか。
その判断を次の担当者へ伝える習慣が、この組織には定着していない。
結果だけが残り、理由は消えている。
折原は、そこでペンを止めた。
配属二年目に見つけた、名前のない引継ノートを思い出す。
あのノートには、正しい手続だけではなく、迷ったことと失敗した理由が書かれていた。
だから、顔も知らない折原に届いた。
行政文書は残っていた。
だが、判断は引き継がれていなかった。
折原は最後に、一行を書き加えた。
残すだけでは、伝わらない。
ノートを閉じる。
宮野へ、どのような説明案を返すかは、まだ決めていない。
来月の住民説明会で、何を伝えるべきかもわからない。
それでも、次に探すべきものは見えた。
残された文書ではない。
残らなかった判断を、どうすれば次の人間へ渡せるのか。
折原は机の照明を消した。
住民説明会は、三週間後に迫っていた。
宮野彩乃は、防災棟の廊下を歩きながら、頭の中で準備の手順を確認していた。
会場の手配。
説明資料の印刷。
関係課への照会。
教育長への事前説明。
作業の順番は、ほぼ固まっている。
問題は、説明会で住民から出る質問に、きちんと答えられるかどうかだった。
北小学校の改修優先順位について問われたら、何と答えるか。
「個別施設計画の評価点に基づいています」
そこまでは言える。
「全市共通の評価方法によって算出しました」
それも事実だ。
だが、
「なぜ、北小学校はこの評価点なのか」
と重ねて問われれば、今の宮野には答えられない。
折原から調査結果を聞いたのは、三日前だった。
評価係数の根拠を直接示す文書は、見つからなかった。
委員会の議事録にも、採用理由は残されていない。
共有フォルダには複数の案があったが、どれが最終的に使われたものなのか判別できなかった。
当時の担当者にも確認したが、十年前の細かな経緯までは覚えていなかった。
「残ってましたよ、数字は。でも、理由は残っていませんでした」
折原は、淡々とそう言った。
申し訳なさそうな顔はしなかった。
資料を見つけられなかったことへの謝罪もなかった。
残っているものと、残っていないもの。
確認できた事実を、ただ区別して伝えてきた。
その落ち着いた話し方が、宮野には少し不満だった。
住民の前に立つのは自分だ。
説明できない理由を抱えたまま、質問を受けなければならない。
折原には、その切迫感が伝わっていないように感じた。
宮野は、千々岩収に相談することにした。
千々岩は、扱いにくい上位者だった。
答えをそのまま教えることは少ない。
問いを投げれば、別の問いを返してくる。
だが、庁内の政策判断や政治的な経緯を知る人物として、千々岩の右に出る者はいなかった。
宮野は七階の秘書課へ内線を入れた。
「お時間をいただけますか。学校施設の評価について、ご相談があります」
「珈琲三番地へ来い」
千々岩は言った。
「昼前だ」
珈琲三番地は、市役所から歩いて三分ほどの場所にあった。
昭和の終わり頃から営業しているらしい。
濃い色の木製カウンター。
少し擦り切れた赤い椅子。
壁に掛けられた振り子時計。
内装もメニューも、時間の流れから取り残されたような店だった。
庁議や議会が終わったあと、千々岩がこの店へ立ち寄ることを宮野は知っていた。
カウンターの最も奥が、いつもの席らしい。
宮野が店へ入ると、千々岩は既に座っていた。
コーヒーカップの横に、分厚いファイルが一冊置かれている。
「座れ」
宮野は隣へ座り、コーヒーを注文した。
「北小の件だな」
千々岩が確認する。
「はい。説明会が三週間後にあります」
宮野は資料を取り出した。
「優先順位について質問された場合、評価係数を採用した理由が説明できません」
「折原が調べたのか」
「はい。根拠資料は見つかりませんでした」
千々岩は資料を見ずに尋ねた。
「北小の裏には何がある」
「住宅地です」
「十年前も、今と同じだったか」
宮野は記憶を探った。
「十年前は……まだ宅地開発の途中だったと思います」
「そうだ」
千々岩は言った。
「当時、北小学区では大規模な宅地造成が進んでいた。計画では、五年後に児童数が三割以上増える見込みだった」
宮野は、個別施設計画の評価項目を思い出した。
劣化度。
利用状況。
耐震性能。
将来需要。
北小の学区で児童数が増える見込みがあったなら、本来は改修の優先順位が上がるようにも思える。
「児童が増える予測なら、北小の優先度は高くなるのではありませんか」
「通常の修繕だけを考えればな」
千々岩は答えた。
「だが当時は、宅地開発に合わせて校舎の増築や建て替えを検討する可能性があった」
「将来、増築や建て替えをする建物へ、その前に大規模改修を行うと、二重投資になる」
「そういう判断だ」
千々岩はファイルを開いた。
「北小は劣化していた。だが、数年後に施設規模そのものを見直す可能性があるなら、当面は応急対応で持たせる。その間に、ほかの学校を先に改修する」
「それが、北小を七番目にした背景だった」
「おそらくな」
「根拠となった予測資料は残っていますか」
「都市計画課が持っていた」
千々岩は答えた。
「開発許可の資料と、当時の人口推計だ。施設評価の事務局も、庁内協議の中で確認していた」
「なぜ、個別施設計画に引用しなかったんですか」
「当時は、開発計画も人口推計も確定していなかった」
「公表前だったから?」
「それもある」
千々岩はコーヒーを飲んだ。
「正式に確定していない数字を、計画の確定的な根拠として公表することを避けたのだろう」
「でも、実際の判断には使った」
「そうだ」
「公表資料には書けなくても、内部の判断記録には残せたはずです」
宮野が言うと、千々岩はわずかに視線を動かした。
「そのとおりだ」
宮野の前にコーヒーが置かれた。
合理的な背景はあった。
北小の改修を単純に軽視したわけではない。
将来の増築や建て替えを見込み、二重投資を避けようとした。
だが、その前提と評価点のつながりは、正式な記録として残らなかった。
十年後の今、計画書だけを読んでも、誰も理由を説明できない。
「通った理由が残っていない案件は、次に立ち止まった時に揉める」
千々岩が言った。
「立ち止まる、というのは?」
「過去の判断を見直す時だ」
千々岩は答えた。
「北小の優先順位を繰り上げるなら、なぜこれまで後回しにしていたのかを説明しなければならない」
「根拠が残っていなければ、以前の判断が誤っていたように見える」
「場合によっては、誰かが不当に優先順位を操作したのではないかと疑われる」
「当時の担当者がいなくても?」
「人は替わる。だが、行政として行った判断は残る」
千々岩は宮野を見た。
「今の担当者であるお前が、説明を引き受けることになる」
「十年前の判断でも、ですか」
「それが行政だ」
千々岩は答えた。
「個人ではなく、役職と組織が仕事を引き継ぐ」
それ以上は説明しなかった。
この人が問いを返す時には、必ず理由がある。
答えそのものは与えない。
だが、何が問題なのかは見えるようにする。
昔から変わらない。
宮野は、そう思った。
折原へ連絡したのは、珈琲三番地から戻った日の午後だった。
「都市計画課の資料を確認してください」
宮野は電話で伝えた。
「十年前の北小学区に関する宅地開発の許可記録と、当時の人口推計です」
「残ってますよ、たぶん」
折原は答えた。
「開発許可の文書は、保存期間が長いので」
「財政課にも確認してください。当時の学校施設改修に関する中期財政推計があるかもしれません」
「人口増加を前提に予算を組んでいたなら、そこにも痕跡があるということですか」
「そうです」
「わかりました」
宮野は、折原の仕事の進め方を信頼していた。
確認すべき対象が明確になれば、迷わない。
必要な資料を探し、残っている事実を整理する。
余計な推測を混ぜない。
三日前には、その冷静さが不満だった。
だが今は、それが必要だとも思い始めていた。
翌日の昼前。
折原が防災棟の教育総務課へやって来た。
折原が教育委員会へ来ること自体は珍しくない。
建物を移動することを面倒とは思わないらしく、電話やメールで済みそうな用件でも、資料を持って直接現れることがある。
「都市計画課の記録、残ってました」
折原は、数枚の資料を宮野の机へ置いた。
「十年前、北小学区で大規模な分譲住宅の開発許可が出ています」
当時の土地利用計画。
予定戸数。
入居開始時期。
学区内人口の推計。
「当時の推計では、五年後に北小の児童数が二百人から二百八十人へ増える見込みでした」
「実際には?」
「五年後で百九十人です」
「減っている……」
「はい。開発戸数が当初計画を下回り、入居者の年齢構成も想定と違っていました」
宮野は資料を見た。
二百八十人という予測。
百九十人という現実。
当時、将来の増築や建て替えを見込み、大規模改修を後回しにした判断は、結果として前提を失っていた。
「財政課の資料は?」
折原は、次の資料を置いた。
古い表計算ファイルを印刷したものだった。
「十年前の学校施設改修に関する中期財政推計です。共有フォルダに残っていました」
各年度の改修費。
起債額。
元利償還額。
将来の一般財源見込み。
「ただ、問題があります」
「何ですか」
「この表の前提数値です」
折原は税収見込みの欄を指した。
「なぜ、この伸び率を使ったのか、ファイル内に説明がありません」
「計算式は残っている」
「はい。数字も式もあります」
「でも、なぜその数字を入力したのかは残っていない」
「そうです」
宮野は、前にも同じ話を聞いたと思った。
評価係数と同じだった。
数字はある。
計算式もある。
結果も残っている。
だが、前提を選んだ理由が記録されていない。
「財政課には確認しましたか」
「しました」
折原は答えた。
「作成当時から、担当者が三回替わっています。現在の担当者は、このファイルの存在自体を知りませんでした」
「つまり?」
「残ってました、ファイルは」
折原の表情は変わらない。
「前提は残ってませんが」
宮野は、防災棟へ戻る前に財政課へ寄った。
四階の窓際の席に、響矢律がいた。
財政課係長。
宮野より四歳年下だ。
若手の頃から有能だと庁内で知られているが、その評価には、
「扱いにくい」
という言葉が添えられることが多かった。
宮野にも、理由はわかる。
響矢の説明は正確だ。
だが、正確な事実が相手を傷つける可能性について、必要以上に配慮する人物ではない。
「北小の件で来ました」
宮野は言った。
「十年前の中期財政推計について、確認したいことがあります」
響矢が書類から顔を上げた。
「あのファイルを見つけたんですか」
「折原さんから資料を受け取りました」
「前提が残っていなかったでしょう」
「はい」
「当時の担当者は、宅地開発を前提にした楽観的な人口推計を使ったのだと思います」
「楽観的、というのは?」
「人口と税収が増えることを前提に、通常より積極的な投資を許容したということです」
響矢は簡潔に説明した。
「将来の税収が増えるなら、起債を増やしても返済できる。そういう財政フレームです」
「当時の地域開発計画を前提にした判断だった」
「おそらくは」
「合理性はなかったんでしょうか」
響矢は、少し考えた。
「当時、公的に利用できた情報の範囲で、人口増加を見込むこと自体は不合理ではありません」
「では、なぜ楽観的と?」
「下振れした場合の別シナリオがありません」
響矢は答えた。
「人口が増えなかった場合、改修順位や財政計画をいつ見直すか。その条件も設定されていない」
「一つの予測だけを、将来の前提にしていた」
「はい」
「そして、その前提さえ記録されていなかった」
「理由が残されていない数字は、いずれ誰かを困らせます」
響矢は言った。
「今回のように」
それだけ言うと、書類へ目を戻した。
話は終わり、という合図だった。
宮野は礼を言い、財政課を出た。
住民説明会の前日。
宮野は、説明資料の最終確認をしていた。
折原が都市計画課と財政課から集めた資料を整理し、説明用のペーパーを作成している。
評価係数を決めた直接的な文書はない。
したがって、
「この人口推計が理由で、北小を七番目にした」
と断定することはできない。
だが、当時の判断の背景として、
\* 北小学区で大規模な宅地開発が計画されていたこと
\* 児童数の増加が予測されていたこと
\* 将来の増築や建て替えが検討される可能性があったこと
\* 当面の大規模改修を避け、二重投資を防ぐ考え方が庁内にあったこと
は説明できる。
また、その人口予測が実現しなかった結果、現在の北小の劣化状況と、十年前に設定された優先順位の間にずれが生じていることも伝えられる。
確定した事実。
文書から推定できる背景。
今も確認できない部分。
三つを分けて説明する。
それなら、少なくとも「昔の計画にそう書いてあるから」というだけの答えにはならない。
宮野は、その方針で説明会に臨むことを決めた。
折原から長いメッセージが届いたのは、夜遅い時間だった。
「財政課の推計ファイルについて、作成当時の担当者まで確認できました。
当時は、北小学区の宅地開発を前提に人口増加と税収増を見込み、通常より積極的な財政フレームを採用したとのことです。
北小についても、将来的な増築や再整備の可能性があったため、現校舎への大規模改修を急がず、ほかの学校を優先する考えがあったようです。
結果として人口予測は外れましたが、当時の開発計画に基づく判断として、直ちに不合理だったとは言えないと思います。
ただし、その前提となった推計や、予測が外れた場合の見直し条件は、正式な判断記録として残されていません。それが今回、理由を説明できない原因になっています」
宮野は、メッセージを何度も読み返した。
当時の担当者が、意図的に記録を残さなかったのかどうかはわからない。
公表前の情報を正式な計画へ書くことを避けたのかもしれない。
単に、庁内では共有されている前提だから、改めて記録する必要はないと思ったのかもしれない。
その時点では、自然な対応だった可能性もある。
だが、十年後。
事情を知る者がいなくなった時、その判断は説明できない数字だけになった。
その負担を引き受けるのは、現在の担当者である宮野だった。
宮野は折原へ返信した。
「わかりました。ありがとうございます。
説明会では、確認できた事実と、資料から推定される背景を分けて説明します。当時の判断理由として断定はしませんが、経緯を理解するうえで重要な情報です」
しばらくして、折原から返信が届いた。
「間違ってたんじゃないと思います。
その時、正しいと考えた理由が、消えていただけで」
宮野は、その言葉をゆっくりと読み返した。
正しかった理由。
厳密には、その判断が絶対に正しかったわけではない。
人口予測は外れた。
下振れ時の見直し条件もなかった。
結果として、北小の改修は遅れた。
それでも、当時の担当者が根拠なく順位を決めたわけではない。
その時点で見えていた開発計画と将来需要をもとに、二重投資を避けようとした。
判断には理由があった。
だが、理由と結果をつなぐ記録が消えたため、十年後には、ただ不可解な順位だけが残った。
宮野は椅子の背にもたれた。
窓の外に北小学校が見えるわけではない。
それでも、学校がある方角へ目を向けた。
青葉市には、多くの公共施設がある。
その一つ一つについて、過去の判断理由が残っているとは思えなかった。
なぜ、この施設を残したのか。
なぜ、別の施設を後回しにしたのか。
どの将来予測を前提にしたのか。
予測が外れた時、いつ見直すつもりだったのか。
理由が失われれば、判断そのものが疑われる。
次の担当者は、過去の経緯を一から掘り起こさなければならない。
変えなければならない。
何を、どのような仕組みに変えるべきかまでは、まだ見えていない。
ただ、一つだけ決めた。
今回わかった経緯を、正式な記録として残す。
十年前の判断を断定的に再現するのではない。
確認できた資料。
関係者への聞き取り。
推定される判断背景。
現在も確認できない事項。
人口予測が外れたという結果。
今後、優先順位を再評価する必要性。
それらを区別して記録する。
個人のノートに書くだけではなく、北小学校の優先順位見直しに関する行政文書として、次の担当者が検索できる場所へ残す。
宮野は、新しい文書の表題を入力した。
「北小学校施設改修優先順位に係る判断経緯整理」
最初の項目を書く。
「本記録は、十年前の判断を正当化することを目的としない。確認可能な事実と、現時点で推定される判断背景を整理し、今後の再評価および住民説明に資するため作成するものである」
宮野は、そこで一度手を止めた。
明日の説明会で何が起きるかは、わからない。
住民が納得するとも限らない。
「なぜ十年間放置したのか」と責められるかもしれない。
それでも、今度は理由を残す。
次の担当者が同じ質問を受けた時、
「わかりません」
から始めなくて済むように。
宮野は資料を鞄へ入れた。
机の上には、作成途中の判断経緯整理が残っていた。
この話のFM豆知識
(豆知識は準備中)
※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら
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