ep117

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第1巻 第17話

ポピュリズムの嵐

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新市長就任から三日後。

市長室。

鴇田建志市長(55歳)は、大きな執務机の向こうに座っている。整った顔立ちには、相手を押し切ることに慣れた者特有の強さがある。

机の上には、長谷たちが作成した個別施設計画が置かれていた。

長谷と石末は、机の前に並んで立っている。

鴇田は計画書の表紙を指で叩いた。

「管財課の計画は読んだ」

「ありがとうございます」

「施設を減らす。統合する。学校へ押し込む」

鴇田はページをめくった。

「要するに、住民の居場所を減らすことしか書いていない」

「削減だけを目的にした計画ではありません」

長谷は答えた。

「施設が担っている機能を残しながら、将来も維持できる量へ見直す計画です。ライフサイクルコストの観点でも――」

「本日をもって、この計画の執行を凍結する」

長谷の言葉が止まった。

「凍結……ですか」

「全面的に見直す」

鴇田は計画書を閉じた。

「私は、施設を残し、街へ投資すると訴えて当選した。前市長の縮小方針を、そのまま引き継ぐつもりはない」

長谷は財政フレームを取り出した。

「市長。少なくとも、将来負担の試算をご確認ください。この計画を白紙にし、全面的な建て替えを進めれば、五十年間で必要となる費用は――」

「五十年後?」

鴇田は眉を上げた。

「私は、今ここに暮らしている市民から選ばれた。五十年後の数字を理由に、現在の市民へ我慢を求めるつもりはない」

「五十年後に突然負担が生じるわけではありません。建設すれば、すぐに維持費と将来の更新費が発生します」

「街が活性化し、人口と税収が増えれば、前提は変わる」

鴇田は長谷を見た。

「君たちの試算は、街が衰退し続けることを前提にしている。私は、その前提を変えるために市長になった」

石末が一歩前へ出た。

「市長。建て替える施設を先に決めれば、本当に危険な建物への対応が遅れる」

鴇田が石末へ視線を向けた。

「現場の劣化状況を見ずに、目立つ施設ばかり建て替えれば、いつか外壁や天井が落ちる。人が死んでからでは遅い」

「言葉を慎め」

鴇田の声が低くなった。

「技術的な意見を述べることは認める。だが、政策を決めるのは市長だ」

「建物は、政策を待って壊れてはくれません」

「これ以上、政治判断へ公然と逆らうなら、人事上の措置も考える」

石末の表情が硬くなった。

長谷は再び口を開いた。

「市長。計画を採用していただけなくても構いません。せめて、基礎となった劣化データだけは見てください」

「必要な資料は、こちらから指示する」

鴇田は机の書類へ目を戻した。

「管財課は、全施設の再整備案と来年度の予算案を作れ。私が求めるのは、できない理由ではなく成果だ」

「全面的な再整備には、財源が――」

「財源を考えるのも行政の仕事だ」

鴇田は顔を上げなかった。

「以上だ」

市長室を出た。

廊下を歩きながら、石末は強く拳を握っていた。

「……あの市長、本気だぞ」

「はい」

「お前、どうする」

長谷は一度、市長室の扉を振り返った。

「諦めません」

「正面からぶつかれば、千々岩と同じように飛ばされる」

「わかっています。市長を言い負かす方法ではなく、市長が受け入れられる方法を探します」

「そんなものがあるのか」

長谷は少し迷ってから答えた。

「萬代さんが言っていました。役所の外から、本物を呼び戻すと」

石末の足が止まった。

「……まさか」

「中性化さんへ連絡します」

その夜。

長谷は掲示板の公開スレッドではなく、中性化のアカウントへ初めて直接メッセージを送った。

「突然の連絡で申し訳ありません。

新市長が就任し、個別施設計画と財政フレームの執行が凍結されました。新市長は施設の全面的な再整備を公約に当選しています。

データを示しましたが、説得できませんでした。正面から反対すれば、計画に関わった職員ごと排除される可能性があります。

どう進めればよいのか、わかりません。力を貸してください」

三十分ほどして、短い返信が届いた。

「萬代から聞いている。明後日の夕方、地下資料室へ来い」

長谷は画面を見つめた。

――萬代から聞いている。

やはり、萬代と中性化はつながっていた。

だが、「地下資料室へ来い」という言葉の意味まではわからなかった。

翌日。

新市長の方針が、正式に各部局へ通知された。

公共施設等総合管理計画と個別施設計画は、再検討に入る。

推進委員会の開催は、当面見送る。

各部局は、所管施設の再整備要望を取りまとめる。

日常点検について廃止の指示はなかった。

しかし、推進委員会による進捗確認がなくなったことで、各部局の運用は再び止まり始めていた。

夕方。

響矢が管財課へ来た。

「各部局の動きが変わりました」

長谷は作業の手を止めた。

「教育委員会もですか」

「はい。田村係長が進めていた点検記録の整備も、課長から新しい指示があるまで拡大しないよう言われたそうです」

「田村さんまで……」

「田村さんの意思ではありません」

響矢は淡々と答えた。

「組織では、個人の考えより、上位の方針が優先されます。田村さんを責めるべきではありません」

「わかっています」

長谷は机上の点検実施率一覧を見た。

「わかっているんですが……」

響矢は少し黙った。

「悔しいですよね」

長谷は顔を上げた。

響矢が、自分の感情をそのまま言葉にするのは珍しかった。

「はい」

「私も同じです」

それだけ言うと、響矢は資料を机に置いた。

その夜。

長谷は、みどり児童館の前に立っていた。

自分でも、なぜここへ来たのかわからなかった。

館内の照明は消えている。

館長に渡した日常点検シートは、今も使われているだろうか。

天井の染みに気づいた職員は、営繕課へ連絡してくれるだろうか。

長谷は何もせず、暗い建物を見ていた。

翌日。

管財課の廊下。

石末が、長谷を呼び止めた。

「長谷。一つ聞いていいか」

「何ですか」

「お前、折れそうか」

長谷は、少しも考えずに答えた。

「折れたいです」

石末は黙っていた。

「正直に言えば、全部投げ出したいです。何か月もかけて作った計画が、三日で止まりました」

長谷は息を吐いた。

「でも、折れません」

「なぜだ」

「田中さんにも、森下さんにも、みどり児童館の館長にも、次へつなぐと伝えました」

長谷は石末を見た。

「俺が折れたら、あの人たちにした説明まで嘘になります」

石末は小さく頷いた。

「そうだな」

翌々日の夕方。

地下資料室。

長谷は、約束の時刻より早く到着していた。

萬代は、テーブルに珈琲を二杯用意している。

長谷はカップを見た。

「萬代さん。もう一杯は?」

「もうすぐ来る」

しばらくして、資料室の扉が勢いよく開いた。

戸口に、がっしりとした体格の老人が立っていた。

色褪せた防寒作業着。

脇には、使い込まれた堅牢型のノートパソコン。

白髪交じりの短髪。

日焼けした顔には深い皺が刻まれている。

年齢を重ねても、建設現場で鍛えた身体の厚みは失われていなかった。

老人は、部屋へ入るなり萬代を睨んだ。

「博物。勝手に人の事務所へ連絡してきやがって。何事かと思ったぞ」

「久しぶりじゃな、直。まず座りなさい」

老人は、長谷を一瞥した。

頭の先から靴まで、値踏みするように見る。

「こいつが例の若造か。締まりのない顔をしているな」

「あの……初めまして。長谷巡です。出先に二年、管財課に二年。採用四年目です」

「経歴は聞いていない」

老人はタフブックを机に置いた。

「お前が、毎晩くだらん書き込みで私のログを汚している爆裂か」

長谷は固まった。

「私のログ」

その言葉の意味を理解するまで、数秒かかった。

「え……」

老人の顔を見る。

掲示板で送られてきた、無数の助言。

LCC。

予防保全。

施設白書。

EBPM。

優先度マトリクス。

包括管理委託。

「あなたが……中性化さん?」

「まあ、座りなさい」

萬代が言った。

「順番に話せばよい」

そのとき、廊下から工具の触れ合う音がした。

石末が資料室へ入ってくる。

老人の顔を見た瞬間、手にしていた工具袋を床へ落とした。

「い……諫山課長」

老人が石末を見た。

「石末か。久しぶりだな」

「どうして、ここに……」

「まず工具を拾え。床を傷つける」

「は、はい」

石末が慌てて工具袋を拾った。

長谷は老人と石末を交互に見た。

「諫山……」

中央地区公民館の古い修繕記録。

二十年以上前から、補修の必要性を訴え続けた職員の印。

石末が、化け物じみた知識と技術を持っていたと語った元上司。

そして、掲示板で長谷へ助言を送り続けた中性化。

ばらばらだったものが、一人の人物へ収束していく。

「諫山直さん……」

「そうだ」

「中性化さんが、実在している……」

「当たり前だ。自動応答だと思っていたのか」

長谷の中で、驚きと感動が一気に膨れ上がった。

思わず諫山へ手を差し出す。

「中性化のアニキ! 本物が――」

諫山は、差し出された手を即座に払いのけた。

「現実でもアニキと呼ぶな」

「でも――」

「掲示板で何度言わせる。私はお前の兄ではない」

「す、すみません」

「謝罪は要らん。ログを汚すな」

隣で石末が、堪えきれず小さく笑った。

萬代は、何事もないように珈琲を飲んでいる。

諫山が石末を睨む。

「何がおかしい」

「いえ。諫山課長が、掲示板でアニキと呼ばれていたとは思わなくて」

「笑うな」

長谷は小さくなって席へ着いた。

諫山も向かいの椅子へ腰を下ろす。

「それで」

腕を組む。

「何が起きた。最初から話せ」

長谷は、新市長の就任から個別施設計画の凍結までを説明した。

鴇田の公約。

全面的な再整備方針。

推進委員会の停止。

千々岩の異動。

各部局が再び動かなくなったこと。

諫山は、一度も口を挟まずに聞いていた。

説明が終わる。

「全面建て替えを公約にして当選した市長を、データだけでは説得できませんでした」

長谷は言った。

「正面から反対すれば、計画に関わった職員ごと排除されます。どうすればいいのか、わかりません」

諫山が尋ねた。

「今の説明で、何が抜けているかわかるか」

「……わかりません」

「鴇田市長の立場だ」

「市長の立場?」

「お前は、自分たちの計画を守る話しかしていない」

諫山は机を指で叩いた。

「鴇田は、なぜ全面建て替えを公約にした」

「人口流出を止めるためだと」

「それだけか」

「市民に我慢を求める市政を終わらせる。夢を語れる街にする、とも言っていました」

「それを、多くの市民が支持した」

「はい」

「なら、その目的を否定するところから入るな」

長谷は黙った。

「鴇田も、街を破綻させたいわけではない。全面建て替えで財政が持たなくなれば、自分の政策も続けられない。それは市長にとっても困る」

「では、市長の公約を守りながら、財政負担も抑える案を作る……」

「ようやく頭が動き始めたか」

諫山は続けた。

「包括管理で生み出せる財源がある。施設の統合や複合化で削減できる将来負担もある。全部を守れと言われたなら、全部同じように建て替える必要はない」

「市長の目玉となる施設には投資する。一方で、目立たない部分では管理方法や施設配置を見直し、財源を生み出す」

「そうだ」

「市長の公約を、逆手に取るんですね」

「違う」

諫山の声が鋭くなった。

「相手を陥れる発想をするな」

長谷は姿勢を正した。

「市長の目的と、お前たちの目的が重なる場所を探すんだ。市長は街の活力を取り戻したい。お前たちは街を破綻させたくない」

諫山は長谷を見た。

「両方を満たす案を作れ。それが行政の仕事だ」

石末が口を開いた。

「諫山さん」

「何だ」

「なぜ、役所を辞めたんですか」

室内の空気が変わった。

石末は続けた。

「当時、俺たちには何も説明がありませんでした。突然いなくなって、懲戒処分だという噂だけが残った」

諫山は答えなかった。

初めて、言葉を選ぶような間が生じた。

「……今夜は、その話もしておく必要がある」

諫山は長谷へ目を向けた。

「爆裂。お前にも聞かせる」

「はい」

諫山は珈琲に手を伸ばし、一口飲んだ。

「私は現役時代、技術的に正しいことがすべてだと思っていた」

静かに話し始める。

「LCCの計算も、劣化予測も、今見ても大きくは間違っていない。修繕の必要性を示す資料としては、十分だった」

「それでも、計画は動かなかった」

「誰も、私の話を聞かなかった」

諫山はカップを置いた。

「いや。正確に言えば、聞かせることができなかった」

長谷は黙って聞いていた。

「住民感情を、非合理的な雑音だと思っていた。議会の動きも、首長の立場も考えなかった。正しい数字を見せれば、合理的な人間なら従うはずだと思っていた」

「技術的には正しくても、人を動かせなかった……」

「そうだ」

諫山は長谷を見た。

「もう一つは、権限の問題だ」

「権限?」

「営繕課長は、建物が危険だと言うことはできる。修繕方法も示せる。だが、予算を持っているのは所管部局だ」

諫山は指を折った。

「学校は教育委員会。公民館は生涯学習部門。福祉施設は福祉部門。私は全体を見ていたつもりだったが、各部局を動かす仕組みを持っていなかった」

「今の推進委員会のような体制がなかった」

「公共施設を全庁で管理するという考え方自体、まだ庁内に根づいていなかった」

諫山は目を伏せた。

「私は、正しさで壁を壊そうとした。壊れたのは、壁ではなく私の方だった」

石末が尋ねる。

「それが、退職の理由ですか」

諫山はすぐには答えなかった。

「それだけではない」

低い声だった。

「だが、続きは働きながら話す。昔話だけで夜を潰すほど暇ではない」

諫山は長谷へ視線を戻した。

「お前も、同じ轍を踏みかけた」

「はい」

長谷は答えた。

「響矢さんや千々岩さんが、相手へ届く言葉を教えてくれなければ、俺も数字だけを押しつけていたと思います」

「気づいているなら、まだ使える」

諫山は椅子から立ち上がった。

「明日から、市長へ出す再整備案を作り直す」

「一緒に動いてくれるんですか」

「助けるとは言っていない」

諫山はタフブックを脇へ抱えた。

「お前が使えるかどうか、見極めるだけだ」

「ついていきます」

「死ぬ気でついてこい」

長谷も立ち上がった。

「はい!」

諫山は長谷を見た。

返事はなかった。

ただ、値踏みするようだった目が、ほんのわずかに細くなった。

「直」

萬代が静かに声をかける。

「珈琲が冷めておるぞ」

諫山は萬代を一瞥した。

「お前が話を長引かせたんだろうが」

そう言いながら、冷めた珈琲を飲み干した。

石末は、今度こそ笑いを隠さなかった。

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(豆知識は準備中)

つづく

※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら