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第1巻 第4話

命を守る二つの点検

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財政課。

響矢律(24歳・財政課主事)が、電卓を叩いている。端正な顔立ちに、黒髪のボブカット。整然と積まれた書類をめくり、数字を一つずつ確認している。

長谷は石末とともに、予防保全の予算要求書を持って近づいた。

「響矢さん、先日提出した予防保全の予算要求について、ご相談があります。市内四十施設を優先的に点検して、来年度から計画的な修繕を始めたいんです」

響矢は書類から目を上げなかった。

「却下です」

「理由を聞かせてください」

「壊れてもいないハコに、予算は出せません」

響矢は淡々と答えた。

「市内百六十一施設の中から、どうやって四十施設を選ぶんですか。営繕課だけで全棟の劣化状況を把握するのは不可能です。それに、根拠となるデータが不足しています」

「不足しているって、具体的にどこがですか」

「根拠資料に古い単価が使われています。数量も見直し前のままです。精査が足りません」

響矢は資料をめくり、問題のある箇所を次々と指し示した。

「でも、壊れてから直すより、予防的に手を入れる方が、長期的なコストは――」

「理屈はわかります」

響矢が初めて顔を上げた。

「ただ、財政課が予算を認めるには、客観的な根拠が必要です。主張だけでは動けません」

反論できなかった。

響矢の指摘は、すべて正しかった。

石末が小さく呟いた。

「……正論だな」

響矢がふいに姿勢を正すと、机の上の書類を揃え始めた。振り返ると、財政課長がこちらへ近づいてくるところだった。

「今日の資料です」

響矢は、課長が足を止めるのと同時に書類を差し出した。

あらかじめ決められていたように正確な動作だった。

課長が立ち去るのを待って、長谷は尋ねた。

「今の、どうしてわかったんですか」

「足音です」

それだけ言うと、響矢は再び電卓に向かった。

二人は財政課を出た。

廊下を歩きながら、長谷は息を吐いた。

「完全に嫌われましたね」

「そうでもない」

「え?」

「あいつは、興味のないことには時間を使わない」

石末が足を止めずに言った。

「要求書の問題点を、全部指摘していただろ。データが不十分だと言ったのは、揃えば動く余地があるということだ。たぶん、興味を持った」

「……そう見えましたか」

「興味を失ったら、本当に何も言わなくなる。今日は言葉があった。覚えておけ」

深夜。

長谷の自宅。

響矢の指摘が、頭から離れなかった。

長谷は掲示板を開いた。

「すべての施設を見回る方法なんてあるのか。人手も予算もない。専門家による点検を提案したら、財政課に体制不足を指摘された。正論だ。どこから手をつければいい」

しばらくして、中性化からレスが付いた。

「すべてを専門家にやらせようとするから破綻する。保全の基本は、二つの点検を連携させることだ。有資格者が定期的に行う『法定点検』と、学校の教頭や公民館長など、現場の施設管理者が行う『日常点検』。日常点検に専門技術は要らない。重要なのは、『いつもと違う』ことに気づくことだ。施設管理者が使えるチェックシートを作れ。参考資料のURLを送る」

二つの点検の連携――。

送られてきた資料を開いた。

法定点検は、専門家が建物の状態を確認する制度的な安全網だ。しかし、すべての施設が同じ点検の対象になるわけではない。点検と点検の間にも、建物の異変は起こる。

すべての施設に誰かの目を届かせるには、日常的に建物を使っている人間の協力が必要だ。

だが、施設管理者に何を見てもらえばいいのか。

これまで誰も、建物を見る方法を教えてこなかった。

翌日、長谷は国の告示や、他自治体が公開している点検シートを読み込んだ。それらを参考に、施設管理者向けの日常点検チェックシートを作り始める。

難しくしてはいけない。

天井や壁に、新しい染みはないか。

扉や窓が、以前より開けにくくなっていないか。

床がきしんだり、沈んだりしていないか。

外壁に、新しいひび割れや剥がれはないか。

専門知識がなくても、「先週と違う」「前から気になっていた」と感じられる項目にする。

中性化の書き込みには、それで十分だとあった。

重要なのは、気づいたことを記録し、誰かに伝える仕組みだ。

記録がなければ、異変に気づいた人がいても、その事実は建物の中に埋もれてしまう。

長谷は項目を削り、表現を直し、何度も作り直した。

点検日。

施設名と場所。

気づいた内容。

写真の有無。

異常が見つかった場合の連絡先。

一枚で収まり、短時間で記入できる形にした。

これなら、続けてもらえるかもしれない。

点検シートが完成した。

だが、いきなり全庁へ広げることはできない。まず一つの施設で試し、実際に使えるか確かめる必要がある。

どこで試すか。

施設白書(仮)を開くと、候補を探した。

築四十年。

定期的な専門点検の対象外。

屋上防水の修繕記録は、十五年前を最後に途絶えている。

市内北部の住宅街に建つ、みどり児童館。

長谷は、その施設名に印をつけた。

この話のFM豆知識

(豆知識は準備中)

つづく

※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら