モグラ叩きの現場
朝、営繕課。石末のデスクに付箋が鱗のように貼られている。「東部小学校・雨漏り至急」「南部公民館・トイレ詰まり」「西部支所・外壁剥落危険」。電話が鳴り続けていた。
「営繕課だ。……また雨漏りか。今日中に行く」
石末が受話器を置いた瞬間、また別の電話が鳴る。石末が無言でまた取った。
営繕課は、毎日これだ。
市内には161の施設がある。それに対し、現場を担当する営繕技術職は、石末を含めて三人しかいない。
電話が鳴るたびに、石末が現場へ飛ぶ。部下が別の現場へ飛ぶ。ひとつ直している間に、別の施設で不具合が起きる。
まるでモグラ叩きだと、長谷は思った。
三階の教室に入ると、床にいくつものバケツが並べられていた。先週の雨を境に、天井の茶色い染みが一気に広がったという。
教頭が二人を出迎えた。
「先週の雨から、ずっとこの状態です。授業中にも水滴が落ちてきます。私たちには、バケツを置くことしかできなくて……」
石末が天井を見上げ、目を細めた。
「屋上防水の寿命だろう。全面やり直しが必要になる」
「費用は、どのくらいですか」
「最低でも800万。予算に空きがあれば来年度に組めるが……」
教頭の顔が曇った。
「来年度まで待てません。今も雨が降るたびにバケツを並べているんです。子どもが授業中に天井を見上げてしまうんです。」
石末がため息をひとつついた。
「応急処置だけやる。できればこの部屋は使用禁止にしてくれ。根本的な解決は来年度以降だ。」
教頭が頭を下げる。石末が次の現場の電話に出ていた。
別の現場。公民館のトイレ。石末の部下が詰まりを解消している。その作業がまだ終わらないうちに、次の連絡が入った。
部下が電話を耳に当てたまま、石末に告げた。
「石末さん、支所の外壁です。別の箇所でも剥離が見つかったそうです。すぐに来てほしいと」
「わかった。今行く」
石末が工具袋を担ぎ、歩き出す。長谷もその横に並ぶ。
「石末さん、今日だけで何件目ですか」
「数えてない。数えたって意味がない」
「このまま続けていたら――」
「わかってる」
石末は前を向いたまま答えた。
「だが、今日の雨漏りを止めなければ、明日の授業を始められない。今の俺にできるのは、それだけだ」
長谷には返す言葉がなかった。
今日起きた問題を、今日直す。
石末には、その積み重ね以外の道がなかった。
夕方。
営繕課に戻った石末は、疲れた顔のまま図面を広げていた。
長谷は声をかけた。
「石末さん。施設白書のデータでは、今日回った三施設は、すべて築三十年以上です。同じような施設が、市内に百棟以上あります」
「知ってる」
「このまま不具合が増え続けたら――」
「追いつかなくなる」
石末が図面から目を上げた。
「だが、先手は打てない。俺たちは、壊れたものしか直せない」
そう言って、再び図面に目を落とす。
壊れたものしか直せない。
石末が図面に目を戻した。長谷は何も言えなかった。
壊れたものしか直せない――。
石末が怠けているわけではない。技術がないわけでもない。
予算がなければ動けない。壊れたという事実がなければ、修繕の必要性を認めてもらえない。
その現実のなかで、石末は今日も現場を走り続けている。
長谷は、その背中を黙って見ていた。
深夜。
長谷の自宅では、今夜もPCの画面だけが光っていた。
長谷は掲示板に書き込んだ。
「現場は不具合への対応だけで疲弊している。壊れたものを直すたびに、予算も人手も消えていく。この繰り返しから、どうすれば抜け出せる」
しばらくして、二つのレスが来た。
最初は、中性化だった。
「事後保全を続けていれば、建物は用途廃止に向かうしかない。壊れる前に直す『予防保全(長寿命化)』にシフトしろ。適切な時期に修繕すれば、建物を長く使え、LCCも抑えられる。国交省のガイドラインを見ろ」
二つ目は、見慣れないハンドルネームだった。
ノッカー。
「中性化の言うとおりだ。ひび割れの段階なら、表面補修やシール材の充填で済むこともある。爆裂してからでは、費用の桁が変わる」
長谷の手が止まった。
ノッカー――誰だ。
プロフィールを開く。
打診棒やテストハンマー、各種測定器を使い、外壁やタイルの浮き、構造体の劣化を診断する「叩き屋」。
投稿は、現場の劣化と補修に関するものばかりだった。その知識は、尋常ではない。
長谷の頭に、昨日の公民館が浮かんだ。
コンコン、コンコン。
石末がテストハンマーを振るい、音の違いだけで外壁の浮きを見つけた。
その姿と、ノッカーのプロフィールが重なった。
まさか。
いや――。
翌朝。
石末は営繕課で、いつものように図面を睨んでいた。
図面の脇に、石末のスマートフォンが置かれていた。
画面には、長谷が毎晩開いている掲示板が表示されている。
「石末さん。それ、昨夜の掲示板ですよね」
「何の話だ」
「ノッカー。打診棒で外壁を叩いて、浮きや劣化を見つける。石末さんが、いつも現場でやっていることです」
石末は答えなかった。
長い沈黙のあと、低い声で尋ねてきた。
「……お前が、爆裂か」
「そうです」
長谷は答えた。
「鉄筋が錆びて膨張し、コンクリートを内側から押し出して剥がす。廃墟で撮った爆裂の写真ばかり投稿していたら、そう呼ばれるようになりました」
二人は無言で見合った。
やがて石末が、小さく笑った。
長谷が初めて見る顔だった。
「予防保全に必要なデータは、俺の技で揃えてやる」
石末は、すぐに表情を戻した。
「ただし、俺はまだ、お前を信用したわけじゃない」
「それで十分です」
石末は再び図面に目を落とした。
この話のFM豆知識
(豆知識は準備中)
※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら
一般財団法人 建築保全センター