青葉市より速く
資料室の机に、青葉市の資料が積まれていた。
公共施設マネジメント白書。個別施設計画。長寿命化計画。それぞれの改訂版が、年度ごとに揃っている。
黒瀬は、白書を一冊ずつめくっていた。
「よく作ってあるな」
「厚いですね」
三崎が言った。実際、白書だけで二百ページ近くあった。
「厚いのは白書だからだ。問題はこっちだ」
黒瀬が示したのは、個別施設計画の別冊だった。
判断根拠資料、と題されている。
三崎は、そのページを開いた。
施設ごとに、評価の経緯が書かれていた。どの指標を使ったか。なぜその指標を選んだか。他にどんな案があったか。採らなかった案について、なぜ採らなかったか。
反対意見の欄があった。出た意見が、要約ではなく、ほぼそのままの形で載っている。
「これ、住民の言葉ですよね。削ってないんですね」
「削っていない」
黒瀬は、そのページを長く見ていた。
見直し条件、という欄もあった。三年後にこの数値が改善しない場合は方針を再検討する。そう書かれている施設が、いくつもあった。
「決めた後のことまで書いてあるのか」
黒瀬は呟いた。
三崎には、それが感心なのか、別の何かなのか、判断がつかなかった。
「規模が違いますね」
「規模は違う。だが、そこじゃない」
黒瀬は、白書の巻末を開いた。推進体制の図があった。資産経営部門に専任職員が複数。技術職も配置されている。庁内横断の委員会。外部有識者による検証。
「うちは、実質二人だ。俺とお前だ。他の職員は兼務で、二、三年で替わる」
三崎はうなずいた。
「向こうは、この記録を作るのに、何時間かけていると思う。一施設あたり少なく見て三十時間、百六十施設なら四千八百時間だ。人ひとりの年間労働時間の三倍近い」
黒瀬は白書を閉じた。
「うちにその時間はない」
三崎は、判断根拠資料の中に、面白い記述を見つけた。
ある地区の集会所について、廃止が検討され、いったん見送られていた。
見送りの理由が書いてある。
代替施設への移動手段が未確保であるため、移動支援の枠組みが整うまで判断を留保する。留保期間は二年とし、その間に交通部門と協議する。
「これ、決めていないんじゃなくて、決めるまでの手順を決めてるんですね」
三崎が言うと、黒瀬は資料を覗き込んだ。
「二年後に、何もできていなかったらどうする。書いてあるか」
三崎はページを繰った。
書いてあった。留保期間終了時に協議が整わない場合は、その時点の状況を再評価のうえ、方針を確定する。
黒瀬は、少し黙った。
「よくできている」
そう言ってから、続けた。
「よくできているが、二年だ」
三崎は、資料の下にある協議記録の一覧を見た。交通政策課、福祉課、地区の運営委員会。日付が十七回分並んでいる。
「十七回、話してますね」
「二年で十七回だ。月に一回にも満たない」
黒瀬はそう言ってから、少し言い直した。
「いや、他の業務を抱えてやる回数としては、多い方だな」
三崎は、その訂正が意外だった。黒瀬は、青葉市の仕事を軽く見ているわけではなかった。
夕方になっていた。
資料室の窓の外は、暮れかけている。四月の日は、まだ短い。
黒瀬は、青葉市の資料を横に寄せて、高峯市の施設台帳を引き寄せた。
厚みなら、青葉市の白書と大差ない。
違うのは、中身だった。
台帳に並んでいるのは、建築年、構造、延床面積、直近の修繕履歴。
判断の記録は、どこにもない。
大滝野生活改善センターのページを開くと、二〇一六年度と二〇一七年度に、屋上防水改修の予算要求が計上され、いずれも「翌年度以降に繰延」と記されていた。
なぜ繰り延べたのかは、書かれていない。
黒瀬は知っていた。町民会館の応急修繕に回ったからだ。
だが、それを知っているのは、この庁舎の中で自分だけだった。
「三崎」
「はい」
「この繰延の理由、台帳から分かるか」
三崎は、しばらくページを見ていた。
「分かりません」
「そうだ。俺が異動したら、誰にも分からなくなる」
三崎は顔を上げた。
黒瀬が、そういう言い方をしたのは初めてだった。
「青葉市は、正しい」
黒瀬は言った。
三崎が待った。
「だが、遅い」
「遅い、というのは」
「あの留保期間二年だ。二年待つ間に、屋根は二年ぶん傷む。その分の修繕費は、誰かが払っている」
「でも、待った理由は残ってますよね」
「残っている。だから正しい」
黒瀬は、白書の背表紙を指で叩いた。
「正しい手続きを一つずつ積み上げている間にも、施設の劣化は止まらない。青葉市には、それを吸収できるだけの体力がある。人も、金も、時間もな」
「うちには、ない」
「ない」
黒瀬は即答した。
「うちが同じことをやれば、記録を書き終える前に、屋根が落ちる施設が出る」
三崎は、その言い方に、反論を思いつかなかった。
町民会館の綴りを、この二週間で読んだばかりだった。
資料室を出ると、廊下で財政課長の塩谷欣造とすれ違った。
「青葉市ですか」
塩谷が、黒瀬の抱えた資料を見て言った。
「参考までにな」
「うちも、あのくらい書ければいいんですがね」
塩谷は立ち止まった。
「書けますか」
「書く時間があれば」
「その時間を作るのが、部長の仕事じゃないんですか」
黒瀬は答えなかった。
塩谷は、それ以上追わなかった。ただ、去り際に一つ付け加えた。
「今年度、大滝野をやるそうですね」
「早いな」
「予算のヒアリングで聞きました」
塩谷は言った。
「あそこは、二年連続で防水改修を落としてます。うちの責任でもある」
黒瀬は、塩谷の顔を見た。
「落としたのは、財源がなかったからだ」
「ええ。ただ、落とした理由を、私は起案に書きませんでした」
塩谷はそう言って、廊下を歩いていった。
黒瀬は、しばらくその背中を見ていた。
「じゃあ、うちはどうするんですか」
三崎が聞いた。
黒瀬は、少し考えるような顔をした。
「先に決める」
「先に、というのは」
「記録を書く時間があるなら、その時間で決める。決めてから、必要なら書けばいい」
「記録は、後からでも作れる、ということですか」
「作れる」
黒瀬は言った。
「決めた後でも、俺が理由を覚えている」
三崎は、その言葉を、このときは黒瀬の口癖のひとつとしか思わなかった。
理由を覚えている人間が一人しかいない、ということの意味を、まだ考えていなかった。
帰り際、黒瀬は青葉市の資料を一冊だけ手元に残した。
判断根拠資料の別冊だった。
「借りていくんですか」
「写しだ。持っていていい」
黒瀬は鞄に入れた。
「参考にはする。全部は真似しない」
「どこを参考にするんですか」
「指標の立て方だ」
黒瀬は答えた。
「劣化度と利用状況の組み合わせ方が、うちより整理されている。あれは使える」
三崎は、それを聞いて、少し安心した。
黒瀬は青葉市を否定しているわけではない。良いところは取り入れる。ただ、時間のかかる部分は削る。それだけのことだと思った。
資料室を出るとき、三崎はもう一度、机の上を見た。
青葉市の資料には、決めた理由が書いてある。
高峯市の台帳には、決まっていないことだけが並んでいる。
その差が何を意味するのか、三崎はまだ、うまく言葉にできなかった。
この話のFM豆知識
FMの教訓:他市の手順を短くする前に、各作業で何を確かめていたかを調べる。
◆ この話で扱う仕事
関係するFMの仕事:統括マネジメントの組織体制・データ管理・規程
施設管理の仕事を続けるには、担当者、決裁する人、使うデータ、記録する項目を決めます。他市と同じ人数や時間を使えない場合は、自分の自治体で続けられる手順に直します。その際も、判断に必要な情報を他の職員が読めるようにし、誰が確認するかを決めておきます。
◆ 省く作業が、何のためにあったかを確認する
例えば、同じ数字を別の表へ写す作業は、入力を一度にまとめられる場合があります。一方、住民の反対理由を聞く作業や、別の職員が費用を確認する作業を省くと、判断に必要な情報を見落とすおそれがあります。省く前に、誰が何を確かめていたかと、代わりにどう確認するかを決めます。
◆ 担当者が覚えている理由も、他の人が読めるように残す
経験のある担当者は、資料にない経緯を覚えていることがあります。しかし、その人が休んだり異動したりすると、他の職員は理由を確かめられません。なぜその案を選び、他の案を採らなかったかを短く記し、根拠の資料と一緒に保管します。後任が同じ資料を開いて読めるかも確かめます。
◆ 物語の場面
黒瀬は、青葉市の白書や個別施設計画を読み、建物の傷みや利用状況を調べる方法を取り入れます。ただし、高峯市では資料を短くし、少人数で判断する方法を選びました。三崎が判断理由の記録について聞くと、黒瀬は自分が覚えていると答えます。資料を簡単にする一方で、理由を知っている人が黒瀬だけになっていく場面です。
■ 担当者が行うこと
取り入れたい手順について、残す作業、省く作業、省く場合の確認方法を書いてください。例えば、会議資料を短くするなら詳しい理由を別紙に残し、会議を減らすなら資料を確認する別の職員と回答日を決めます。担当者が替わっても、記録を読んで同じ確認ができるかを試してください。
確認する法令・計画・庁内のルールなど
- 先行自治体の公共施設白書・個別施設計画:項目や様式に加え、誰がデータを集め、どの会議で使い、どう更新しているかを調べます。
- 各自治体の文書管理・決裁規程:判断の理由をどこに記し、誰が確認し、どこへ保存するかを確認します。
※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら
一般財団法人 建築保全センター