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第1巻 第1話

黒い冊子

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のちに「黒い冊子」と呼ぶことになるその存在を、この朝の長谷はまだ知らない。壊れてから直す。先送りする。その繰り返しの中に、自分がいることさえ、まだ自覚していなかった。

本庁・管財課。デスクには図面と台帳が雑然と積み上がっていた。長谷巡(26歳・管財課主事)は、現地調査の写真と、数年前の台帳の写真を見比べていた。現場を駆け巡る彼のハイカット革靴の紐は、几帳面に結ばれていた。

出先にいた2年間で巡った施設を思い浮かべた。腐朽で床が沈んだ公民館。外壁からコンクリート片が剥落し、カラーコーンで囲まれたままの支所。「使用禁止」の札が貼られた、錆びた鉄骨が剥き出しの倉庫。どれも修繕予算がゼロのまま放置された結果だった。

長谷は筋金入りの廃墟マニアだ。長谷にとって廃墟は、役目を終えた建物が辿り着く終着点だった。役所がやっていることは、建物の修繕を先送りして、手遅れを理由とした看取りの繰り返しだ。俺は、まだ使える建物を、廃墟にはしたくない――。

長谷のデスクに、管財課長の桜井肇(50代)が、近づいてきた。

「長谷くん、地下資料室に昭和48年度の施設台帳があるはずだ。取ってきてくれないか。下に萬代さんがいる。場所がわからなければ確認してくれ。古い台帳のことなら庁内で一番詳しい方だ」

「はい」

長谷は短く答えると立ち上がり、廊下に革靴の足音を響かせた。腰には工具袋、胸ポケットにLEDライトを差している。

本庁に来て2年経つ。出先と違い、データが整備されている……と思っていた。

ところが本庁にも体系的なデータはほとんどなかった。あっても施設ごとにバラバラ。部局が違えば書式も違う。台帳の内容も、本当に現状を記録できているのか、誰に聞いても確認できない。

地下への階段を降りて、資料室の扉を開けた。照明の数は少なく、列柱のように天井まで届くスチール棚が光を遮る。LEDライトを点けた。

埃の匂いが鼻を突く。ライトを片手に、棚と棚の間を抜けて歩いた。

「昭和48年……昭和48年……」

呟きながら歩いていると、突然、棚の奥から声が聞こえた。

「昭和48年度の施設台帳なら、右から三列目の棚の下から二段目じゃよ。本冊ではなく補遺の方を見なさい。合併前の施設はそちらに綴じてある」

長谷は足を止め、声がした方向に頭を向けた。よく見ると、奥に鋼製の扉があった。

誰の声だ。……なぜ俺が探している冊子を知っていたんだ。

訝しみながら、指示された場所を調べてみると、確かに「昭和48年度施設台帳(補遺)」と書かれた冊子があった。

台帳を手に取ろうとした長谷は、その隣に異質な雰囲気の冊子が挿さっているのに気が付いた。背表紙はLEDライトの強い光さえ反射しない、漆黒という言葉が相応しい黒だ。

「……なんだ、これ」

手に取った冊子の表紙に文字は無かった。

「財政指標、廃校率、空き施設率、人口流出率……他にもある。自治体の状況を表す指標だ。数字は……うちの市のものか? 何の本だ、これは」

長谷はその冊子を棚に戻せなかった。この数字は自分に必要になる――そんな予感があった。

補遺の綴じられた台帳と黒い冊子を抱えると、先ほどの声の主を確かめることにした。鋼製の扉にはプレートが剥がされたような跡があり、何の部屋なのかはわからない。床とのわずかな隙間からは、仄かな光が漏れていた。

「鍵は……開いているのか」

扉を引くと、外光が目に入った。ドライエリアに面した、20平米程度の部屋だ。床には年季の入った絨毯が敷かれ、什器は革張りのソファと、使い込まれた木製の家具。どれも古い物ばかりだが、丁寧に手入れされていた。市史で見た、旧市庁舎を思わせる空間だった。

部屋の中ほどのソファに、老紳士が座り、コーヒーを飲んでいた。萬代博物(65歳・再任用職員)。部屋の雰囲気に馴染む三つ揃えのスーツ。上着のポケットからは、懐中時計の金鎖が垂れていた。長い白髪は後ろに結われ、顎髭も丁寧に整えられていた。

「歓迎しよう、若い管財官」

「あなたが萬代……さん」

「そうじゃ。この資料室にはわししかおらん。通算で30年、この場所に勤務しておる」

長谷は壁の感謝状や、キャビネットに並んだ分厚い報告書を目で追った。

「……役所ですよね、ここ。調度品が市長室より格上に見えますが」

「余分な物を家から持ち込んだだけじゃ。資料整理業務に要する什器として、許可はもらっておる。30年前のことじゃがな。ここは仕事場ではなく、思索の場じゃからな。寛ぐじゃろう?」

「……声が聞こえました。どうして俺が探しているものがわかったんですか」

「桜井から連絡を貰った。それだけじゃよ」

「いくら連絡があったとしても、補遺の場所を即答できるなんて」

「詳しいわけじゃない。忘れなかっただけじゃ」

重みを感じる言葉だった。

長谷は、先ほど見つけた黒い冊子を思い出した。この老紳士なら知っているだろう、そう思った。

「この冊子、わかりますか。台帳の隣で見つけました。普通の冊子と思えないんです」

萬代が冊子を手に取り――表情を変えた。

「……」

「知っているんですか、この冊子」

「……いや」

萬代がページを捲った。しばらく沈黙が続いた。

「この資料室の蔵書は、すべて把握しておる。一冊残らず……だが、これは知らん」

「え? でも、確かに台帳の間に――」

「わしが知らんものが、この資料室にあった……」

異質な冊子と動揺する老紳士。それは、奇妙なほど印象的な光景だった。萬代が目線を長谷に移した。その目は、真剣さを帯びていた。

「この冊子の数字――これは警告だと思う。わしは、この街の建物が老いるのを見てきた。多くの者は気にかけておらず、限界を迎えようとしている建物もある。……気づいた者もいた。動こうとした者もいた。だが、流れが変わることはなかった」

萬代が言葉を続けた。

「わしは建物の専門家ではない。財政を動かす立場でも、政治を決める立場でもない。だがな、敗北が繰り返されるのを、ここから見続けてきた」

「敗北?」

長谷は、その言葉が何を指すのかわからず、問い返した。

「今度はお前に向き合えといっているのかもしれん。……持って帰りなさい、若い管財官」

「いいんですか」

萬代が静かに首肯した。

「……今、話せることはこれだけじゃ。行きなさい」

深夜。長谷の自宅。薄暗い部屋にPCの画面だけが明るい。画面は建築系の匿名掲示板。長谷のハンドルネームは「爆裂」。廃墟マニアとして廃建築の写真を何百枚もアップロードしてきたので、呼ばれるようになった。長谷はいつものスレッドを開くと書き込んだ。

「建物を修繕する予算が足りない。本庁に来てもデータすらまともにない。どうすればいいか」

数分後、レスが付いた。ハンドルネームは「中性化」だ。

「お前の役所はLCC(ライフサイクルコスト)を計算したのか。建物の企画から除却までにかかる費用の合計だ。学校施設だと建設費はLCCの25%程度に過ぎない。全施設で幾らかかるか、計算してみろ」

長谷は電卓を叩いてみた。全学校施設の建設費を仮に4倍すると――。

「……何百億円も足りない」

学校施設だけでこの数字だ。市の施設は学校だけじゃない。公民館も、体育館も、支所も、倉庫もある。まずはすべてのデータを集めよう。長谷は、覚悟を決めた。この街のまだ使える建物を救うために。

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(豆知識は準備中)

つづく

※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら