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急ぐ理由 第9話

戻れない

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一月、黒瀬の執務室。

机の上に、桔梗台高齢者福祉センターの評価資料と、複合支援拠点の整備計画が並んでいた。

築三十九年。入浴設備、交流室、健康相談室。利用者は日に三十人前後。

新しい複合支援拠点は、子育て支援と地域包括支援の機能を一体化する計画だった。福祉センターの機能も、そこへ統合する。

稼働は、早くても二年後。用地はまだ取得できていない。

「事業債の申請は、今年度中に方針を固める必要がある」

黒瀬が言った。

「集約化の要件を満たせば、充当率九十パーセント、交付税措置が五十パーセント。来年度以降は、要件が変わる可能性がある」

「間に合わなければ」

「一般財源だ。入浴設備の更新だけで、六千万かかる」

三崎は、資料をめくった。

現施設の閉鎖時期が、来年度中と書かれている。

「新拠点の稼働が二年後で、閉鎖は来年度、ということですか」

「そうだ」

「一年以上、空きますよね」

「入浴は、近隣の施設を案内する」

黒瀬は即答した。

「桧尾町の福祉センターと、芦名市の温浴施設に、広域利用の枠がある」

「桔梗台から桧尾町まで、バスは通っていません」

「移動支援は、福祉部局が検討する」

三崎は、そのページを見たまま黙った。

先月、桔梗台の福祉センターに行った時のことを思い出していた。

入浴の日で、送迎の軽自動車が二台、玄関前に停まっていた。降りてきた人のうち、二人は自分では歩けなかった。職員が両側から支えて、時間をかけて中に入っていった。

自宅の浴槽に一人で入れないから、ここに来る。そういう人が、週に二回来ていた。

「黒瀬さん」

「何だ」

「サービスを受けられなくなる人のことを、別の話にして進めていいんですか」

黒瀬は資料から顔を上げた。

「それぞれに所管がある」

黒瀬は言った。

「移動支援は福祉の仕事だ。資産経営が全部を抱えたら、何も決まらない」

「でも、閉めるのは資産経営です」

「閉めるかどうかを決めるのが、うちの仕事だ」

黒瀬は続けた。

「そこに移動支援の見通しまで含めたら、いつ決まる。福祉が枠組みを作るのに、何年かかると思う」

「かかっても、必要じゃないですか」

「必要だ。だが、その間に事業債の期限は過ぎる」

黒瀬は資料を指した。

「六千万を一般財源で払えば、他の施設の改修が二年遅れる。町民会館の時と同じことが起きる」

三崎は、その言葉に、すぐには返せなかった。

黒瀬の理屈は通っている。

「檜倉のことなんですが」

三崎は、話を変えた。

「あれは、結果的に腐朽が見つかったから、正しかったことになりました」

「そうだ」

「でも、基準を変えた時点では、分かっていなかったんですよね」

「分かっていない」

「じゃあ、運が良かっただけです」

黒瀬の目が、三崎に向いた。

「同じ基準を桔梗台に使えば、次も同じように出るとは限りません」

「詳細点検を早めればいい」

「点検で何も出なかったら、どうするんですか」

三崎は続けた。

「檜倉は、腐朽が見つかったから誰も何も言いませんでした。桔梗台で何も出なければ、基準を変えて順位を上げたことだけが残ります」

黒瀬は、しばらく答えなかった。

「戻す、と言いたいのか」

黒瀬が言った。

「やり方をです」

「やり方を戻したら、また十年かかる」

「結果は残します」

三崎は言った。

「大滝野も檜倉も、結論は変えません。でも、同じ方法では続けません」

「お前には分からない」

黒瀬は言った。

「六年見ていない人間には、分からない」

三崎は、そこで一度、息を吸った。

「僕には、これが正しいかどうか判断できません」

黒瀬が、三崎の方を見た。

「黒瀬さんの言うことは、たぶん正しいです。事業債の期限も、六千万の話も、本当です。僕にはそれを覆せる材料がありません」

「なら、黙って見ていろ」

「いえ」

三崎は、はっきりと言った。

「判断できないから、僕たちだけで決めません」

黒瀬は、机の上の資料を閉じた。

「誰が決める」

「正式な手続きに委ねます」

「手続きなら、もう踏んでいる。会議も通した」

「通したのは、黒瀬さんが作った資料です」

三崎は言った。

「基準を変えた経緯も、他にどんな案があったかも、残っていません。今の資料では、後から誰も検証できません」

「検証する必要があるのか」

「あります」

「なぜだ」

「黒瀬さんがいなくなったら、この判断の理由は、誰にも分からなくなるからです」

黒瀬は、それに答えなかった。

三崎が部屋を出るまで、机の上の資料に手を伸ばすこともしなかった。

廊下に出てから、三崎は自分の手が震えていることに気づいた。

判断する権限は自分にはない。そう黒瀬に伝えたことは、逃げではないはずだった。

だが、師と仰いだ人間に向かって、そう言い切った自分の声が、まだ耳の奥に残っていた。

窓の外は、もう暗くなっていた。

一月の盆地は、日が落ちるのが早い。

三崎は、そのまま自分の席に戻らず、しばらく廊下に立っていた。

この話のFM豆知識

FMの教訓:施設を閉める前に、新拠点が開くまで、誰がどこでどのサービスを受けられるかを確かめる。

◆ この話で扱う仕事

関係するFMの仕事:FM戦略・計画/プロジェクト管理/供給の評価

施設の移転では、必要なサービスを必要な時期に受けられるかを調べます。今の施設を閉める日と、新しい施設を開く日が離れていれば、その間の場所、利用時間、受け入れ人数、移動手段を決めます。新施設の建設日程だけでなく、利用者がどう過ごすかを、運営する課と一緒に計画します。

◆ 財政制度の期限と、施設を閉める時期を分けて考える

有利な財政措置を使うため、申請を急ぐ場合があります。しかし、申請期限が近いことだけでは、利用者の行き先が決まるわけではありません。閉める時期を変えた場合の費用と、予定どおり閉めた場合に受けられなくなるサービスを並べ、決裁する人が比較できるようにします。

◆ 予定が遅れたときに、閉鎖日を見直す条件を決める

建物を閉め、人や設備を移した後では、元の使い方に戻すために時間と費用がかかります。例えば、新施設の工事が遅れたり、送迎を頼む相手が決まらなかったりしたときに、今の施設を使い続けるかを検討します。いつまでに何が決まらなければ再判断するかを、閉鎖を決める前に記しておきます。

◆ 物語の場面

桔梗台高齢者福祉センターは翌年度末までに閉める案でしたが、新拠点が開くのは最も早くて二年後です。一年以上、サービスを受ける場所がなくなるおそれがあり、送迎も決まっていません。財政措置の期限が迫るなか、三崎は、代わりのサービスを受けられるかも含めて、市として判断する必要があると考えます。

■ 担当者が行うこと

財政措置の申請、現在の施設の閉鎖、仮のサービス開始、新拠点の開設を、日付を分けて書いてください。その間に利用する人、場所、時間、移動手段、費用、準備する課を確認します。決まっていない事項を明記し、工事や送迎の準備が遅れた場合に、誰がいつ閉鎖日を見直すかを決めます。

確認する法令・計画・庁内のルールなど

  • 地方債制度・対象年度の財政措置:対象事業、条件、申請や事業実施の期限を財政担当課や都道府県に確認します。物語の条件や期限を、そのまま実際の案件に当てはめないでください。
  • 個別施設計画・事業計画:閉鎖日、新拠点の開設日、その間のサービスの場所と費用を、同じ日程表で確認します。
つづく

※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら