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急ぐ理由 第1話

十年後

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決裁文書の綴りは、表紙が日に灼けていた。

黒瀬真一は、それを机の上に置いた。

背表紙に「旧高峯町民会館 廃止」とある。日付は二〇二〇年三月。

「これ、廃止まで六年かかってるんですね」

三崎修平が、綴りを覗き込んだ。

「六年だ」

黒瀬は即答した。

「俺が担当になった時には、修繕費が使用料収入を上回っていた。それでも決まらなかった」

三崎が綴りをめくる。住民説明会の記録。議会答弁の写し。担当者交代の辞令が三人分。

「調整に時間がかかった、ということですか」

「調整という名目でな」

窓の外に、盆地を囲む山並みが見える。本庁舎は一九七八年の建設で、いまの耐震基準を満たしていない。壁のひびは、去年より少しだけ長くなっている。

二〇一四年八月。旧高峯町民会館の大ホールで、雨漏りが起きた。

天井材が一枚、客席の上に落ちた。使用中ではなく、けが人は出ていない。

黒瀬は当時二十八歳、施設管理係の主事だった。

天井裏に上がると、断熱材が湿っていた。指で押すと水が滲んだ。梁に白い粉が吹いている。濡れと乾きを長く繰り返した跡だった。

「これ、いつからですか」

「分かりません。ただ、去年今年の話じゃないですね」

戻ってから点検記録を調べた。三年前の定期点検に、屋上防水の劣化を指摘する記述があった。要経過観察、と書かれている。

その翌年の記録には、同じ項目がなかった。担当者が替わっていた。

引き継がれたのは、建物と書類の束だけだった。

黒瀬は三案の比較資料を作った。

応急修繕を続ける。初年度約四百万円。雨漏りは止まらない。

大規模改修する。概算三億二千万円。財源の見込みはない。

廃止して機能を近隣施設へ移す。利用者は五年前の六割に減っている。

資料の最後に、黒瀬はこう書いた。

判断が遅れるほど、選べる案は減る。

会議は十一月に開かれた。

上司は施設管理係長の神保重之だった。神保は資料をよく読む人で、三案比較にも鉛筆の書き込みが入っていた。

「よく整理してある。ただ、これで廃止を決めるには材料が足りない」

「どこが足りないでしょうか」

「利用者の内訳だ。六割に減ったのは分かるが、誰が減ったのかが分からない」

黒瀬は反論しなかった。神保の言うことは正しかった。

「では調べます。いつまでに」

「そうだな」

神保は天井の方を見た。

「地区の意向も聞いておかないと、数字だけでは議会に説明できない」

期限は、決まらなかった。

財政課の担当は、三億二千万は起債の枠では厳しいと言った。ただ、廃止するかどうかは施設所管で決めてほしい、とも言った。

もっともな話だった。

その場の誰もが、自分の所管ではない部分を残して発言していた。全員が正しいことを言い、全体としては何も決まらなかった。

二〇一五年度、住民説明会が二回開かれた。

会場の後ろで、七十代の男性が手を挙げた。

「わしらは、ここに集まって、誰が来とらんかを見とるんです」

黒瀬は、意味をつかみかねた。

「顔を見せん人がおったら、あとで様子を見に行く。三十年やっとる」

「その活動は、別の場所でも続けられるのでは」

「場所を変えたら、来る人が変わりますよ」

黒瀬は会議録にその発言を残した。一行だった。地域活動の継続を懸念する意見あり。

書きながら、これでは何も伝わらないと思った。それ以上どう書けばいいのかも、分からなかった。

二〇一六年度、市長が替わった。方針は総合計画との整合確認のため、いったん止まった。

二〇一七年十一月の会議を、黒瀬はよく覚えている。

会議室は、四階の第三会議室だった。暖房が効きすぎていて、窓を少し開けていた。町民会館の写真をプロジェクターに映すと、スクリーンが白く飛んで、雨染みの輪郭が見えなくなった。黒瀬は照明を一つ消してもらった。

上の担当者は、その年に替わったばかりだった。前任からの引き継ぎ書は、二枚だった。

「利用状況の推移は、どうなっていますか」

三年前と同じ質問だった。

黒瀬は、二〇一五年に自分が作った資料を出した。表紙の日付を見て、担当者は少し驚いた顔をした。

「これ、二年前のものですか」

「二年前です。数字は、その後さらに下がっています」

「新しいものを作り直した方が、説明しやすいですね」

黒瀬は、そのとき何も言わなかった。

作り直すことに、二か月かかる。その間に、また誰かが替わる。

会議は一時間で終わった。決まったのは、次年度予算で改修費を再度試算する、ということだけだった。

散会のあと、黒瀬は開けたままの窓を閉めに戻った。

窓枠に、雨で流れた砂が溜まっていた。この庁舎も、同じように古い。指でなぞると、白い跡が残った。

誰も無責任なことは言っていなかった。

ただ、次に何を確認すれば決められるのか、それを誰がいつまでにやるのかは、最後まで決まらなかった。

三年で、応急修繕費は九百六十万円かかった。

使える部屋は、大ホール、二階集会室、和室の順に減った。避難所の収容可能人数は三分の一に見直された。書道と体操教室は別の施設へ移り、参加者が少し減った。

二〇一七年の予算査定を、黒瀬は覚えている。

財政課の小会議室で、机の上に要求書が積まれていた。黒瀬は、町民会館の応急修繕費と、大滝野生活改善センターの屋上防水改修を、同じ束の中に入れて持っていった。

査定の担当は、町民会館の頁でいったん手を止めた。

「これは、今年もやるんですね」

「やらないと、残っている部屋も使えなくなります」

「大滝野の方は、まだ雨漏りしていない」

「今はしていません。あと数年で来ます」

担当は、両方の頁を並べて見ていた。

「片方なら通せます」

黒瀬は、その場で選ばされた。

いま雨漏りしている建物と、数年後に雨漏りする建物。どちらを先にするかと聞かれれば、答えは一つしかなかった。

大滝野の屋上防水改修は、その年も、翌年も見送られた。

黒瀬が選んだのではない。決めないまま応急修繕を続けるという状態が、勝手に選ばせていた。

残すとも廃止するとも決めないまま、サービスだけが細っていった。

二〇一八年七月、記録的な豪雨で配電盤が水を被り、全面休館が決まった。

黒瀬は休館の掲示を自分で貼った。雨で、テープがうまく貼りつかなかった。

振り返ると、地区の女性が二人、傘を差して立っていた。

「もう、開かないんですか」

「当面は」

「当面って、いつまでですか」

黒瀬は答えられなかった。

廃止が決まったのは、二年後だった。理由書には、老朽化が著しく改修費に対して利用見込みが乏しい、と書かれていた。

六年前に黒瀬が書いた内容と、ほとんど同じだった。

「六年かけて、建物は残らなかった」

黒瀬は言った。

「サービスも守れなかった。応急修繕に一千万近く払って、他の施設の改修を二年遅らせて、最後は同じ結論だ」

「……誰かが、決めていれば」

「決めなかったことも、判断だ。ただ、誰もその責任は取らない。取れる形になっていない」

三崎は、しばらく黙っていた。

「六年の間に、決められる場面はあったんでしょうか」

「二〇一五年の秋なら、決められた」

黒瀬は綴りをめくり、一枚を指した。利用者属性調査、と題した資料だった。

「減っていたのは、車を持たない高齢者じゃなく、若い世代だった。手当てすべき対象がはっきりしていた。だが誰も、判断の場に出さなかった」

三崎はその資料を手に取った。日付は二〇一五年十月。決裁欄に、印は二つしか押されていなかった。

黒瀬は施設台帳を引き寄せた。

「いま、うちの公共施設は七十一。人口十五万の青葉市は五百十二棟だ。うちは人口が四分の一ほどで、それでも七十を超える施設を抱えている」

黒瀬はページをめくった。

「築三十年超が五十八パーセント。五年後には七割を超える。全部を六年かけて決めるなら、最後の施設が決まるのは、俺たちが定年になった後だ」

黒瀬は台帳を閉じた。

「早く決めた方が、皆のためになる」

その言葉を、黒瀬は本気で言っていた。

「次の評価対象を決める。大滝野生活改善センターだ」

三崎が顔を上げた。

「町民会館の時に、改修を後回しにされた施設ですね」

「そうだ。あの時に回らなかった予算は、その後も回っていない。築三十八年、屋上防水はまだ手つかずだ」

「地区の行事では、まだ使われていますよね」

「行事の話は、現地で見てから考える」

黒瀬はそう答えて、地図を畳んだ。

「来週、現地に行く。樫村も連れていけ。三年目だ、そろそろ一件、最初から見せておきたい」

課の入口で、樫村悠が資料の箱を抱えて立っていた。

「大滝野、行くんですか。僕、去年の秋に行きました。防災訓練の記録係で」

「どうだった」

「人、いましたよ。かなり」

「訓練の日は、そうだろうな」

「はい。……訓練の日は」

樫村はそれ以上言わなかった。

黒瀬も、それ以上聞かなかった。

この話のFM豆知識

FMの教訓:判断を延ばすときは、追加費用と利用への影響を調べ、いつまでに決めるかを記す。

◆ この話で扱う仕事

関係するFMの仕事:FM戦略・計画/運営維持/評価

今必要な修繕と、これから何年使い、いくらかかるかを一緒に考えます。建物の傷みを調べ、修繕する時期と予算を決め、工事後の状態も確かめます。利用料の収入が修繕費より少なくても、それだけで廃止は決められません。誰が何のために使い、代わりの場所で同じサービスを受けられるかも調べます。

◆ 修繕費と、使い続けられるサービスを確かめる

判断を延ばしている間に応急修繕が増えると、他の施設の修繕に使う予算が足りなくなる場合があります。その一方で、修繕したから続けられたサービスもあります。支出額と、その支出で何を維持したかを一緒に記録します。建物に危険がある場合は、今の安全を確保する対応と、今後も使うかを決める検討を分けて進めます。

◆ 追加で調べることと、判断する日を決める

利用者の内訳、地区の意向、改修費などを追加で調べるときは、その結果を何の判断に使うかを決めます。例えば、代わりの会館を使えるか調べるなら、空いている時間、利用人数、移動手段を確かめます。調べる担当、報告日、結果を見て判断する人を決めてから作業を始めます。

◆ 物語の場面

旧高峯町民会館は、廃止まで六年かかりました。その途中の三年間に、応急修繕費九百六十万円を使います。大滝野の防水改修は二年見送られ、町民会館でも使える部屋が減っていきます。黒瀬は、決めなかった間に選べる方法が減ったと考えます。ただし、六年前に廃止するのが最もよかったかは、本文だけでは判断できません。

■ 担当者が行うこと

使い続ける案、改修する案、移転や廃止の案について、一年延ばすと増える費用、利用できなくなる場所、安全への影響を並べてください。他の施設の修繕が遅れるかも確認します。追加調査には担当と期限を付け、結果が出たら誰がどの判断をするかを決めます。

確認する法令・計画・庁内のルールなど

  • 総務省「公共施設等総合管理計画の策定等に関する指針」:今後の改修・更新費用や、対策を延ばした場合の負担を考える際に確認します。
  • 各自治体の個別施設計画:どの施設をいつ直すか、何を優先するか、使い続けるか廃止するかを検討する際に確認します。
つづく

※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら