壁を入れたい場所、入れたくない場所
十月。宇津木彰から、再解析の結果が届いた。
上三層を減らした状態で、建物全体をもう一度評価したものである。
長谷は説明を聞きながら、資料に並んだ階ごとの結果を追った。
上の階は、目標とする性能に近づいている。下の階も、二つの方向のうち一方は大きく改善していた。
「かなり良くなりましたよね」
「良くなりました」
宇津木は答えた。
「前提どおりに減築できれば、ですが」
そして、一番下の行を指した。
一階。二つある方向のうち、もともと弱かった方。そこだけが、まだ離れている。
「ここは残ります」
長谷が資料を見る。
「上を三層減らしても、ですか」
「減らしたから、ここまで来ました。ただ、一階そのものの弱さがなくなるわけではありません」
宇津木は一階の平面図を引き寄せた。
「上部の重量を減らせば、地震時に受ける作用は小さくなります。でも、一階はもともと耐震要素が少ない」
「受ける方の問題が残る」
「そうです」
長谷は資料を見た。
三層減らす。それが大きな答えになることは、もう疑っていなかった。
ただし、三層減らせば全部が解ける。いつの間にか、そう思い始めていたことに気づいた。
違った。減らしても、残る問題がある。
十一月。長谷と宇津木は、一階ロビーにいた。
そこへ藤岡務が加わった。総務課長。本庁舎の窓口配置や来庁者対応を所管している。長谷より、一回り以上年上だった。
平日の午前。待合の椅子は半分ほど埋まっている。記載台に人が立つ。番号を呼ぶ声。
正面玄関から入ってきた高齢の男性が、一度立ち止まり、総合案内を見つけて歩き出した。
宇津木が図面を広げた。
「構造的に補強を考えたいのは、この方向です」
候補になる位置を、何本か鉛筆で示す。窓口カウンターの背後。正面出入口の近く。待合の中央。
藤岡は図面を見た。次に、実際のロビーを見る。
「ここに壁が入るんですか」
「壁とは限りません」
宇津木は答えた。
「耐震壁、ブレース、柱の補強、外部側の補強。いくつか方法はあります。ただ、補強を効かせたい位置はあります」
藤岡は、待合の一角を指した。
「あそこ、椅子を抜いてあるでしょう」
長谷が見る。三列ある椅子の端が、一席分ほど空いている。
「車椅子の方が、そのまま横につける場所です。ベビーカーも通る」
藤岡は入口の方を向いた。
「繁忙期は、記載台の列があそこまで伸びます」
さらに、総合案内を見る。
「初めて来る人は、入口で一回止まります。そこで案内が見えなければ、次にどこへ行けばいいか分からない」
宇津木は黙って聞いていた。
「ここに何か立てるなら、動線を全部考え直すことになります」
「そうなります」
「待合が狭くなれば、列が外へ出ることもあります」
「可能性はあります」
藤岡が長谷を見る。
「長谷さん」
「はい」
「耐震性を上げるために、毎日の市民サービスを落とすのでは、本末転倒でしょう」
長谷は、すぐには答えなかった。
藤岡は間違っていない。
この一階は、市民が最初に入る場所だった。工事は一度。しかし、補強した形は、そのあと何十年も残る。
安全にした結果、毎日使いにくい庁舎になる。それもまた、失敗だった。
長谷は宇津木に聞いた。
「壁じゃないと駄目ですか」
宇津木は図面の縁を指で押さえた。
「いいえ。ただ、工法を変えれば別の条件が出ます」
一つずつ挙げる。壁。鉄骨ブレース。柱そのものの補強。建物の外側へ耐震要素を追加する方法。
「外へ出せば、内部の影響は小さくできます。ただし、外構や出入口、開口部との取り合いが出ます。外観も変わります」
「柱なら」
「補強できる範囲はあります。ただ、それだけで必要な性能を全部負担できるとは限りません」
「ブレースは」
「開口を残せる場合があります。その代わり、斜材が動線や視線に掛かることがあります」
長谷が聞いた。
「どれが一番いいですか」
宇津木は首を振った。
「今は決められません」
そして、図面を長谷の方へ回した。
「何を残さなければならないのかを決めてください」
長谷は図面を見た。
以前なら、どの工法なら一番影響が少ないか、宇津木にさらに聞いたかもしれない。
だが、それは順番が違う。
長谷は図面をそのまま藤岡の前へ滑らせた。
「藤岡さん」
「何ですか」
「全部残す、では設計できません」
藤岡は長谷を見た。
「逆に、構造だけで決めても、市役所として使えなくなります」
「そうですね」
「総務として、絶対に譲れない条件を決めてもらえませんか」
藤岡は答えなかった。
長谷は待った。
説得するつもりはなかった。藤岡の反対を、なくす必要もない。
必要なのは、何に反対しているのかを、設計できる形にすることだった。
藤岡は図面から顔を上げた。
「三つです」
藤岡は、入口を指した。
「一つ目。正面から入ったら、総合案内が見えること」
初めて来た人。高齢者。どの課へ行けばよいか分からない人。最初に頼る場所だった。
「ここが見えなくなるのは駄目です」
次に、待合と記載台の間を指す。
「二つ目。車椅子とベビーカーが通れる動線を切らないこと」
単に通路幅を数字で確保するという意味ではない。人が並んでいるときでも使えること。曲がれること。待っている人を避けて通れること。
そして三つ目。
「待合から、窓口が見えること」
藤岡は番号表示を見上げた。
「呼ばれたか分からない人が、何度も立って確かめに来るんです。声だけでは足りません」
宇津木が三つを書き込んだ。総合案内への視線。移動できる動線。待合から窓口への視認性。
「この三つです」
藤岡が言った。
「これが残るなら、配置は変えても構いません」
宇津木は図面を見直した。しばらくして、鉛筆を動かした。
「正面側は、外部補強を優先して検討します」
別の場所を示す。
「内部は、視線や動線を切りにくい補強を組み合わせる」
さらに柱を指す。
「柱自体の補強も含めます」
藤岡が聞いた。
「これで決まりですか」
「いいえ」
宇津木は即答した。
「候補が絞れたところです。実際の配置は、解析と設計を繰り返して決めます」
長谷は頷いた。
答えが出たわけではない。だが、問いは変わった。
どこに壁を入れるか、ではない。三つの条件を守りながら、どこで建物を支えるか。
そこまで絞れれば、あとは専門家の仕事になる。
長谷が図面を見ながら言った。
「弱いところを、隠さずに外から支えるのもありですね」
宇津木は図面から目を上げてから答えた。
「条件が合えば、有力です」
藤岡は図面をしばらく見ていた。
「これなら、まだ市役所です」
賛成した、という言い方ではなかった。
長谷は、それで十分だった。
藤岡は反対を取り下げていない。反対する理由を、三つの条件に変えただけだった。
それで、設計は先へ進める。
帰り際。宇津木が図面を畳みながら言った。
「一階は、最後ですね」
長谷が顔を上げた。
「最後、って」
「窓口を止められません」
宇津木はロビーを見た。
「上から工事を進めても、ここだけは別です。補強方法だけでなく、どう空けるかまで決まらないと触れません」
藤岡が聞いた。
「空ける」
「工事するときは、人をどける必要があります」
藤岡は待合を見た。
「窓口ごと、ですか」
「必要な範囲は」
藤岡は長谷を見た。
「それは、また別の話ですね」
「そうですね」
長谷は答えた。
今はまだ、どこを補強するかを考えている。どう工事するかは、その先だった。
ただ、最後に残るのが一階になる。その言葉だけは、長谷の中に残った。
この話のFM豆知識
FMの教訓:壁ができると誰がどこで困るかを聞き、通路や案内の条件を設計者へ伝える。
◆ この話で扱う仕事
関係するFMの仕事:プロジェクト管理/品質の評価
設計を始めるときは、安全性とともに、来庁者が窓口を見つけられるか、車椅子で通れるか、職員が仕事をしやすいかを確認します。こうした使い勝手も、FMでいう品質に含まれます。必要な条件を言葉や図で設計者へ伝え、設計案で満たせるかを一つずつ確かめます。
◆ 工法を選ぶ前に、窓口で必要なことを確認する
補強には、壁や柱を補強する方法、斜めの部材を入れる方法、建物の外側から支える方法などがあります。どの方法を使うかは、構造設計者が建物の条件を調べて検討します。その前に、窓口で残したい通路、見えるようにしたい案内、必要な待合の広さを伝えておきます。
◆ 「困る」と言われたら、困る人と場所を聞く
例えば、壁ができると困ると言われたら、入口から総合案内が見えなくなるのか、車椅子が通れなくなるのか、待合から窓口が見えなくなるのかを聞きます。場所と理由が分かれば、設計者は壁の位置や通路の取り方を検討できます。物語の三つの条件に加え、自分の庁舎で必要な条件と法令上の基準も確かめます。
◆ 物語の場面
一階では、補強のために壁を入れたい場所と、窓口のために空けたい場所が重なります。藤岡は、市民サービスが使いにくくなることを心配します。長谷は、必ず守りたい条件を三つ挙げてもらいます。総合案内が見えること、車椅子やベビーカーが通れること、待合と窓口の間が見えることです。この条件を、構造の検討に使えるようにします。
■ 担当者が行うこと
要望ごとに、誰が何に困るか、必要な通路や見通し、配置を変えてもよい範囲を書いてください。混雑時の列や車椅子の移動は、図面と現場の両方で確かめます。例えば、仮に机や椅子を置き、通れるかを確認します。必要な安全性と使いやすさが両立しない場合は、配置や補強方法を検討し直します。確認した人と決裁した人も記録します。
確認する法令・計画・庁内のルールなど
- 各自治体の庁舎運用・窓口対応の基準:案内、待合、通路、職員の作業場所について、確保すべき条件を確認します。
- 耐震改修の設計に使う技術基準:必要な耐震性能と、採用する補強方法の条件を設計者に確認します。
※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら
一般財団法人 建築保全センター