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第3巻 第3話

公民館の鍵

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灘町地区公民館は、五十七棟の再編方針の中で、「公有から民有への移管」を検証する最初の事案として選ばれていた。

港ノ浦とは別の沿岸部にあり、湊原市の中心部から車で二十分ほど離れた住宅地に建っている。

「ここで移管の手順を一度確立できれば、同じ条件の施設に応用できます」

津久見は、梶原にそう説明していた。

「応用できれば、ということは、まだ手順は確立していないんですね」

「ええ。今回が最初の事例です」

応用できる手順を確立する。

津久見は、その言い方を気に入っていた。

一つの現場で得た知見を、別の現場でも使える形にする。それは、津久見がRFSCへ転職して以来、信じ続けている価値だった。

一つの町だけのために働くのではない。自治体の中で培った経験を横断的に使い、多くの町を同時に救う。

その確信が、ここまで津久見を支えてきた。

公民館の鍵は、いつも同じ場所に掛けられていた。

事務室の壁に打たれた釘。そこに束ねられた鍵の一つを、門脇君子が外して見せた。

「これ、もう二十年近く、私が開け閉めしているんですよ」

門脇は七十二歳。元小学校教員で、民生委員を十二年務めている。

鍵を持つ手は、年齢を感じさせないほど確かだった。

「二十年というと、毎日ですか」

「毎日ではありません。週に三回くらいです。でも誰かがここを使う日は、必ず私が開けています」

津久見が持つ資料には、稼働率二十二パーセントと書かれていた。

築四十六年。

Is値、〇・三八。

耐震性は基準を大きく下回っている。

建物の壁には、長年繰り返されてきた修繕の跡が、塗装の微妙な色の違いとして残っていた。

「耐震改修を含めて直す場合、概算で一億二千万円です」

津久見が言うと、門脇は手の中の鍵を見つめたまま、しばらく黙っていた。

「高いですね」

「高いというのは、市として負担できない金額だという意味ですか」

津久見が尋ねると、門脇は鍵から目を離さずに答えた。

「出せるかどうかは、市役所が決めることでしょう。私が言いたいのは、それとは別です」

「別というと」

「ここで集まっている人たちは、どこへ行けばいいんでしょう」

門脇が顔を上げた。

「お金を出せないなら、ここはなくなるんですよね」

津久見は、資料をめくる手を止めた。

「建物が残るかどうかではなく、ここで行われている交流が続くかどうか、という話ですね」

「そうです」

「交流を続けられるなら、別の場所でも構わないのでしょうか」

門脇は初めて、答えを探すような顔をした。

「考えたことがありませんでした」

短い沈黙があった。

門脇は、公民館の中を見渡した。

長机の並ぶ小さな和室。

週に一度、近所の高齢者が集まり、編み物をしたり、お茶を飲んだりする場所だった。

壁際には、使い込まれた湯飲みが伏せて置かれている。誰のものか分かるように、それぞれ違う模様が付いていた。

「この場所が、というよりは」

門脇が、ぽつりと言った。

「この時間が続いてほしいんです」

「この時間、とは」

「決まった曜日に、決まった人たちが、決まった場所に集まる。それだけのことです」

門脇は和室を見たまま続けた。

「それが続くなら、場所が変わってもいいのかもしれません。でも場所が変われば、来られなくなる人もいます。歩いてここまで来ている人もいますから」

津久見は、その言葉を手帳に書き留めた。

この時間が続いてほしい。

しかし、場所が変われば来られない人がいる。

活動と建物は分けて考えられる。

だが、完全に切り離すことはできない。

これもまた、数字に置き換えにくいものだった。

門脇の言葉が示すものを検討の外に置けば、移管の手順は容易に整理できる。

建物の評価。

譲渡条件。

修繕負担。

運営主体の選定。

条例廃止。

財産処分。

それらを順番に並べれば、制度としての手順は完成する。

しかし、その手順だけでは、ここに毎週集まる人たちの時間が続くかどうかは分からない。

地域が大切にしているものを、手順の外へ置いたまま、手順だけを完成させていいのか。

津久見は、その懸念をまだ言葉にできなかった。

市役所へ戻ると、津久見は梶原に論点を整理して示した。

「市有施設として廃止する場合、設置条例の廃止について議会の議決が必要です。その後、建物を地域団体へ譲渡または貸し付ける手続きに進みます」

「移管そのものは可能なんですね」

「制度上は可能です」

「制度上は、ということは」

「建物の所有と運営を、市から地域側へ移す手順は作れます。ただし、受け手となる団体が継続的に運営できることが前提です」

「修繕費は誰が負担するんですか」

「移管条件によります。無償譲渡にするのか、一定期間は市が修繕を支援するのか。耐震改修を行ってから渡すのか、現状有姿で渡すのか。それぞれ財政負担と責任の所在が変わります」

梶原は資料を見ながら尋ねた。

「門脇さんたちが願っていたことも、その手順で守れますか」

津久見は、すぐには答えなかった。

「制度上できることと、門脇さんが願っていたことは、同じではありません」

「やはり違いますか」

「はい。今お伝えしているのは、建物を移管するための制度です。門脇さんが求めているのは、毎週集まる時間が続くことです」

「建物を渡しても、続くとは限らない」

「そうです。地域団体が建物を引き受けても、修繕費を負担できず、数年後に閉鎖する可能性があります。反対に、建物を手放しても、近隣に代替の場所があり、そこまで移動できるのであれば、活動は続くかもしれません」

「では、今回は公有から民有への移管を試す案件ではないんですか」

「その検証はします。ただし、移管を目的にしてはいけないと思います」

津久見は資料の余白に、言葉を書き加えた。

建物の移管。

活動の継続。

参加できる人の維持。

三つは、同じではない。

「最初に確認すべきなのは、建物を誰が持つかではありません」

津久見は言った。

「ここで守るべきものが何かです。その上で、建物の移管が最適な手段かを判断します」

梶原が津久見を見た。

「これまでの津久見さんなら、先に制度を整理していたんじゃないですか」

「今も制度は整理します。そこは変わりません」

津久見は一度、言葉を止めた。

「ただ、制度に入らないものを、なかったことにはできないと分かってきました」

この案件で確立しようとしていた「移管の手順」は、手続きとしては形にできる。

だが、門脇が言葉にした願いは、その手順だけでは扱えなかった。

一つの事例から、他の自治体でも使える共通の型を作る。

それが津久見の仕事だった。

しかし共通の型を作ろうとすればするほど、その土地にしかない事情が削ぎ落とされていく。

応用できるものと、応用してはいけないもの。

標準化できる手続きと、その場所でしか成立しない時間。

津久見はその晩、報告書に「公有から民有への移管手続」と書いた。

しばらく考えた後、その下に新しい項目を加えた。

「移管後に継続すべき地域活動と、参加条件の確認」

書きながら、津久見は思った。

応用できる手順を作るだけでは足りない。

手順を適用する前に、何を手順の外へ落としてしまうのかを、確認する必要がある。

それもまた、別の町へ持ち運ぶべき知見なのかもしれなかった。

この話のFM豆知識

(豆知識は準備中)

つづく

※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら