ep124

自治体FM物語第1巻 › 第24話
第1巻 第24話

諫山の言葉

この話の公開状況
状態

← 第1巻 目次に戻る

地下資料室。

萬代と諫山が、向かい合って座っていた。

テーブルの上には、珈琲が二杯。

長谷と石末の姿はない。

「直」

萬代がカップを置いた。

「今回のことで、お前は何か変わったかね」

諫山は眉を寄せた。

「……私の何が変わったというんだ」

「役所を辞めてから、何年もここへ近づかなかった」

「用がなかったからだ」

「個人事務所で閑古鳥を飼いながら、掲示板で若い職員へ助言を送り続けていた」

「余計なことを言うな」

「それが今回は、自分の足で役所へ戻ってきた」

萬代は諫山を見た。

「呼んだのはわしじゃ。だが、来ると決めたのはお前じゃろう」

諫山は珈琲に手を伸ばした。

すぐには口をつけず、カップの中を見ていた。

「……あの若造を見ていて、思うことはあった」

「何を思った」

「私が現役の頃にできなかったことを、あいつはやろうとしている」

「データと人間の両方を見ることか」

「ああ」

諫山は短く答えた。

「私は、数字が正しければ人は動くと思っていた。あいつは数字を持ちながら、怒鳴られた相手のところへもう一度行く」

「羨ましいかね」

「違う」

諫山は即座に否定した。

少し間を置いてから続ける。

「……安心した」

萬代が微笑んだ。

「何に」

「自分が途中で止めた仕事を、誰かが別のやり方で続けている」

諫山は、ようやく珈琲を飲んだ。

「そのことには、少し安心した」

「それを、嬉しいと言うのではないかね」

「博物。お前は昔から、人の言葉を勝手に言い換える」

「違うなら、訂正すればよい」

諫山は答えなかった。

資料室の扉が開いた。

長谷と石末が入ってくる。

長谷は、修正を重ねた計画書を抱えていた。

「萬代さん、諫山さん。次の地区で進める包括管理と住民協働の計画案ができました。確認していただけますか」

諫山は無言で手を差し出した。

計画書を受け取り、ページをめくる。

数ページ進むたびに、赤いペンで書き込みを加えていった。

長谷と石末は黙って待った。

やがて諫山が顔を上げる。

「大筋は悪くない」

「では、この内容で――」

「ただし、実施手順を変えろ」

長谷が計画書を覗き込む。

「どこですか」

「包括管理の運用開始と、住民による施設運営への移行を、同じ時期に置いている」

「住民の関心が高いうちに、両方を動かした方がよいと思いました」

「対話を始めるのは早くていい」

諫山は該当箇所へ線を引いた。

「だが、実際の運営を同時に切り替えるな」

「なぜですか」

「トラブルが起きたとき、原因がわからなくなる」

諫山は説明した。

「委託事業者の運用に問題があるのか。行政の引継ぎが悪いのか。住民運営のルールが足りないのか。二つを同時に動かせば、責任の所在が曖昧になる」

「住民との話し合いは先に始める。でも、実際の運営移行は、包括管理の体制を確認してから」

「そうだ」

「ただ、時間を空ければ住民の熱が冷めるかもしれません」

「熱が冷めたなら、なぜ冷めたかを確かめろ」

諫山は言った。

「勢いだけで始めた仕組みは、勢いがなくなれば止まる。熱意がなくても続けられる形へ落とし込むのが計画だ」

石末も計画書を覗いた。

「俺も同意見だ」

「石末さんも?」

「住民と話すのは早い方がいい。だが、安全管理や連絡体制が整う前に、鍵や点検を任せるのはまずい」

石末は図面の添付資料を指した。

「技術的な準備ができてから、運営を一段ずつ渡せ」

長谷は修正箇所へ付箋を貼った。

「わかりました。対話開始と運営移行を分けます」

その場で修正を進めた。

最後のページを書き換える頃には、外は暗くなっていた。

諫山はタフブックを閉じた。

「これでいい」

「ありがとうございます」

「礼は要らん」

諫山は椅子から立ち上がり、外套を手に取った。

「今日で、ここへ毎日来るのは終わりだ」

長谷の手が止まった。

「もう戻られるんですか」

「私にも仕事がある」

石末が小さく言う。

「閑古鳥の世話ですか」

「黙れ」

諫山は外套を羽織った。

長谷は立ち上がったものの、何を言えばよいのか決められずにいた。

「諫山さん」

「何だ」

「俺は、諫山さんと同じ轍を踏まないようにすると言いました」

「ああ」

「でも、正直に言うと、まだ自信がありません」

諫山が長谷へ向き直った。

「自信など、なくていい」

「なくていいんですか」

「自信があっても、間違える時は間違える」

諫山は言った。

「お前も、いつか折れるかもしれん」

「折れたら、終わりですか」

「折れて終わる人間もいる。折れたまま、それでも続ける人間もいる」

「その違いは?」

「折れた後にしかわからん」

長谷は、少し迷ってから尋ねた。

「諫山さんも、折れたんですか」

諫山は否定しなかった。

「役所を辞めた時にな」

「もう終わりだと思いましたか」

「思った」

「でも、掲示板で助言を続けていた」

「続けようと決めたわけではない」

諫山は外套の襟を整えた。

「老朽化した施設の事故や、修繕を先送りする自治体の記事を見ると、黙っていられなかった。それだけだ」

「それが、俺には届きました」

諫山が長谷を見る。

「最初に送ってもらったLCCの資料も、日常点検も、優先度マトリクスも、包括管理も」

長谷は続けた。

「あのURLがなければ、俺は何から始めればよいかもわかりませんでした。今ここにいるのは、諫山さんが道を示してくれたからです」

沈黙が続いた。

諫山は、視線をわずかに外した。

「……そうか」

「はい」

諫山は長谷を改めて見た。

「長谷」

「はい」

「お前は、まだ下手だ」

「はい」

「議会では答えに詰まる。住民への説明の順番を間違える。勢いで動いて炎上する。技術的な知識も足りない」

「……はい」

「私が現役の頃にできていたことさえ、できていないことが多い」

石末が横で腕を組んでいる。

長谷は、黙って続きを待った。

「だが、お前は人間の顔を覚えている」

諫山が言った。

「田中さんが諦めた時の顔を覚えている。森下さんに怒鳴られても、翌日もう一度訪ねた。坂本さんへ、できない約束をしなかった。みどり児童館の館長の話を聞き直した」

「はい」

「それが、私には足りなかった」

諫山は短く息を吐いた。

「だから、お前は私より遠くまで行ける可能性がある」

「可能性……」

「保証ではない」

諫山は念を押した。

「約束された未来などない。可能性を潰すのも、現実にするのも、お前だ」

「何をすればいいですか」

「続けろ」

答えは短かった。

「数字を見る。現場を歩く。人の話を聞く。前提が変われば、判断をやり直す」

諫山は扉へ向かった。

「それを続けろ」

諫山が地下資料室を出た。

萬代も立ち上がり、廊下まで見送りに出る。

石末が長谷の横へ立った。

「諫山さんらしい褒め方だな」

「褒められたんでしょうか、俺」

「最大限にな」

「下手だと言われた記憶の方が強いんですが」

「あの人が『可能性がある』などと言うのを、俺はほとんど聞いたことがない」

廊下では、萬代と諫山が短い言葉を交わしていた。

「直。次は居酒屋で話そう」

「ああ。次はお前が払え」

「いつも、わしが払っておる」

「私の記憶では逆だ」

「都合のよい記憶じゃな」

諫山は階段へ向かった。

数段上ったところで、一度だけ足を止める。

振り返ることはなかった。

「博物」

「何じゃ」

「また珈琲を飲みに来る」

萬代は微笑んだ。

「少しはましな豆を用意しておこう」

諫山は何も答えず、階段を上っていった。

その背中が見えなくなるまで、萬代は廊下に立っていた。

翌朝。

本庁・管財課。

長谷のハイカット革靴の音が、廊下に響いた。

席へ着く。

机の上には、次の地区の計画書。

包括管理委託の報告書。

日常点検シートの集計結果。

住民との意見交換記録。

黒い冊子は、もうない。

諫山も個人事務所へ戻った。

だが、仕事は昨日と同じように続いていた。

萬代は地下資料室にいる。

石末は現場へ出ている。

響矢は財政課で数字を見ている。

千々岩は、市長秘書室長へ復帰していた。

鴇田市長が包括管理委託と重点投資の方針を正式に採用したことを受け、再び政策調整を担うことになったのだ。

その千々岩が、長谷の机へ来た。

「長谷」

「おはようございます」

「次の地区の包括管理と住民協働に関する予算案だ」

決裁済みの書類を机へ置く。

「市長決裁まで通した」

「ありがとうございます」

「俺の仕事だ。礼はいらない」

千々岩は続けた。

「それと、伝えておくことがある」

「何ですか」

「重点施設の再整備について、予算の枠が固まった」

「市長は、どの施設を選んだんですか」

「青葉市民ホールだ」

長谷は、すぐには答えなかった。

「やはり……」

「象徴性があり、倉持議員の地元でもある。政治的には当然の選択だ」

「FM上の最優先ではありません」

「そうだ」

「東部小学校や、劣化が進んだ福祉施設の方が、危険度は高い」

「それでも、財政上はぎりぎり成立する」

千々岩は長谷を見る。

「管財課として、提言書を出せ」

「選定の見直しを求めますか」

「候補施設ごとの劣化状況、費用、利用効果、先送りした場合のリスクを示せ」

「それでも市長が市民ホールを選んだら?」

「決定権は市長にある」

千々岩は答えた。

「だが、提言する義務はお前たちにある」

「記録へ残すために」

「ああ」

千々岩は書類の端を指で整えた。

「市長は替わる。部長も課長も、担当者も替わる」

「判断の理由が残っていれば、次の人は、その続きから考えられる」

「残っていなければ、また最初からだ」

千々岩は続けた。

「あるいは、過去の判断が、後から都合よく説明される」

長谷は机の引き出しを開いた。

北部市営住宅の事故後に作り始めた「判断記録」が入っている。

「正しかったかどうかは、すぐにはわからない」

長谷は言った。

「だから、何を根拠に、何を選び、何を選ばなかったかを残す」

「それが、次に判断する人間への最低限の責任だ」

千々岩が答えた。

「提言書は、今週中だ」

「わかりました」

管財課長が自席から声をかけた。

「長谷くん。少しいいか」

「はい」

課長は、別の決裁書類を長谷の机へ置いた。

「青葉市民ホールの提言書は、俺の名前で出す」

長谷は課長を見る。

「中身は、君が作ってくれ」

「わかりました」

課長は、その場を離れなかった。

少し迷うように黙り、やがて口を開く。

「施設白書を全庁へ配る話が出た時、俺は、反対される理由ばかり考えていた」

「課長……」

「根回しが難しい。各部局が反発する。自分の代で波風を立てたくない」

課長は苦笑した。

「全部、そのとおりになった」

「でも、止めませんでした」

「止めなかっただけだ。矢面に立ったのは、君と千々岩さんだった」

課長は決裁書類へ手を置いた。

「正直に言えば、俺には荷が重かった」

長谷は言葉を挟まなかった。

「だが、君たちがここまで持ってきたものを、課長である俺が最後に潰すわけにはいかない」

課長は長谷を見る。

「判子は俺が押す。だから君は、現場と数字を離すな」

「はい」

「どちらか一方だけで、提言書を作るな」

「わかりました」

「頼む」

課長は咳払いをし、自席へ戻っていった。

少しして、石末が現場から戻ってきた。

立入調査の報告書を長谷へ差し出す。

「今月の重点施設調査だ」

「問題はありましたか」

「緊急対応が必要なものはない」

石末は報告書の一か所を指した。

「ただし、北部支所の屋上防水は、来年度に本格修繕へ入れろ。部分補修で持たせる段階は終わりだ」

「個別施設計画へ反映します」

「それと」

石末は続けた。

「西部集会所で、住民が日常点検のやり方を教えてほしいと言ってきた」

「橋本さんたちですか」

「三十代の男だ。前に壁を塗っていた奴だ」

「自分から?」

「ああ」

石末は、何でもないことのように答えた。

「天井のシミと、建具の変化の見方を教えた。写真の残し方もな」

「どうでしたか」

「案外、筋がいい」

「住民が、建物の変化を自分で見ようとしている」

「騒ぐほどのことか」

石末は首を傾げた。

「自分たちが使う建物を見る。当たり前だろう」

報告を終えたように背を向けたが、思い出したように立ち止まる。

「あと、大浜公民館の排水口を見てきた」

長谷は顔を上げる。

「大浜公民館に?」

「落ち葉が溜まっていた。掃除しておいた」

「調査予定には入っていませんでした」

「閉鎖中だからこそ、誰かが見なければならん」

石末は答えた。

「現場を見るのは、俺の仕事だ」

午後。

響矢が財政フレームの修正版を持って、長谷の机へ来た。

「今年度実績を反映しました」

「包括管理の削減効果ですか」

「はい。試算より、わずかに良い結果が出ています」

響矢は年度別の表を開いた。

「全額を自由に使えるわけではありませんが、来年度の計画修繕費を少し増やせます」

「どの施設に充てる予定ですか」

「大浜公民館です」

長谷の手が止まった。

「確定したんですか」

「来年度の修繕対象として、財政フレームへ入れました。雨漏りと屋上防水を優先します」

「ありがとうございます」

「財政上の条件が整ったからです」

響矢は淡々と答えた。

長谷は少し笑った。

「森下さんのことを覚えていたんでしょう」

「覚えています」

「以前の響矢さんなら、住民との約束は予算査定の根拠にならないと言った気がします」

「今も、それだけでは根拠になりません」

響矢は答えた。

「劣化の緊急度、前年度に見送った経緯、応急対応の限界、包括管理の削減効果を総合して判断しました」

「合理性は変わっていない」

「はい」

響矢は少し間を置いた。

「ただし、行政が説明した内容を実行することは、長期的な信頼を維持するうえで合理的です」

「合理性の定義が広がった?」

「そういうことです」

「変わりましたね」

「変わっていません」

響矢は資料を閉じた。

「考慮する変数が増えただけです」

昼休み。

本庁舎の屋上へ出た。

空は晴れていた。

風を受けながら、ハイカット革靴の紐を結び直す。

眼下には、青葉市の街並みが広がっていた。

財政状況は、依然として厳しい。

人口減少も止まっていない。

閉鎖した施設がある。

廃校になった学校もある。

青葉市民ホールの建て替えを、少しでも妥当な計画へ近づけなければならない。

問題は、何一つなくなっていない。

それでも、この街は少し変わった。

みどり児童館では、職員が日常点検を続けている。

大浜公民館は、来年度の修繕対象に入った。

西部集会所には、盆踊りの音が戻った。

地域の住民が、天井のシミや建具の変化を見るようになった。

各部局には、施設の状態を記録する仕組みが残った。

万能の正解はない。

一つの施策ですべてが解決することもない。

必要なのは、建物と財政の状態を数字で確かめること。

壊れる前の小さな変化を、現場で見つけること。

施設に積み重なった時間と、そこを使う人間の声を聞くこと。

選んだ理由と、選ばなかったものを記録すること。

そして、状況が変わった時には、過去の判断へしがみつかずに決め直すこと。

長谷は、遠くに見える西部集会所の方向へ目を向けた。

小さく、古い建物だ。

市全体の地図では、一つの点にすぎない。

だが今日も、誰かが鍵を開ける。

用事のない人が立ち寄る。

子どもが走り、高齢者がお茶を飲む。

公共施設が多いことが、街の豊かさではない。

本当に必要なものが、それを必要とする人の手が届くところにある。

その状態を、未来へつなぐ。

それが、自分たちの仕事なのだと、今なら思える。

長谷は屋上を後にした。

管財課へ戻る。

扉を開けると、石末は現場図面を広げていた。

響矢は財政データを確認している。

千々岩は、青葉市民ホールの資料へ付箋を貼っていた。

管財課長は、決裁書類に目を通している。

いつもの光景だった。

長谷は鞄を持った。

「東部小学校へ行ってきます。外壁調査の追加確認です」

石末が図面から顔を上げる。

「俺も行く」

「別の現場があるんじゃないですか」

「午後に回した」

響矢が資料を渡した。

「東部小学校の過去十年間の修繕費です。現場で必要なら使ってください」

「ありがとうございます」

千々岩は顔を上げずに言った。

「青葉市民ホールの提言書は、今週中だ。忘れるな」

「はい」

長谷は扉を開けた。

「では、今日も街の最適解を探してきます」

「大げさなことを言ってないで、早く行け」

石末が先に廊下へ出る。

長谷も後を追った。

二人分の革靴の音が、廊下を遠ざかっていく。

響矢は、財政データから顔を上げた。

閉じた扉を、しばらく見ていた。

――まだ、飽きていない。

問いの対象を明確にする必要もなく、答えは変わらなかった。

響矢は静かに画面へ向き直った。

この話のFM豆知識

(豆知識は準備中)

つづく

※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら