ep123

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第1巻 第23話

冊子が示すもの

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市民協働の取組が始まって、数か月が過ぎた。

西部集会所では、住民による運営が少しずつ日常になっていた。

鍵を開ける人がいる。

清掃当番を組む人がいる。

お茶の時間だけ顔を出す人がいる。

子どもを連れて来る人もいれば、盆踊りの練習にだけ参加する人もいる。

運営上の問題がなくなったわけではない。

鍵当番の負担が一部の住民へ偏ることもあった。

子どもの声をめぐって意見が対立した。

中心メンバーが決めすぎているという不満も出た。

そのたびに話し合い、ルールを修正した。

完全ではない。

それでも、行政から指示がなくても、住民自身が問題を見つけ、相談し、決め直すようになっていた。

同じような取組は、ほかの二地区でも始まっている。

一つの集会所から始まった動きが、三つの地区へ広がった。

管財課にも、久しぶりに落ち着いた空気が流れていた。

長谷は机の引き出しから、黒い冊子を取り出した。

表紙は、白に近い灰色になっている。

ページを開く。

改善した指標がある。

悪化したままの指標もある。

一つの問題へ手を入れれば、別の問題が見える。

すべてが一方向へ良くなることはない。

それが、この街の現実だった。

地下資料室。

萬代は、いつものソファで珈琲を飲んでいた。

「萬代さん。今日の数字は、どうですか」

長谷が冊子を差し出す。

萬代はページをめくった。

「施設健全度は、安定してきた。市民信頼度も、以前ほど大きく揺れておらん」

長谷は、その下にある、現実の統計にはない奇妙な指標を見た。

「未来可能性は?」

「まだ低い」

萬代は別の欄へ目を移した。

「それから、人口流出率は今月、横ばいになっておる」

「横ばい……」

長谷は数字を覗き込んだ。

「改善したわけではないんですね」

「そうじゃ。悪化が止まっただけじゃ」

「廃校は出ました。閉鎖した施設もあります。人口そのものは、まだ減っています」

「うむ」

「それでも、流出率が横ばいになったということは、何かが変わり始めたんでしょうか」

萬代はすぐには答えなかった。

「そうかもしれん」

珈琲カップを置く。

「あるいは、一時的な変動にすぎんかもしれん。この数字だけでは、そこまでわからない」

「西部集会所の取組が影響した可能性は?」

「一つの集会所だけで、街全体の人口動態が変わったとは考えにくい」

萬代は穏やかに言った。

「ほかの施策や、景気、住宅事情、偶然の変動もある。都合のよい物語へ数字を当てはめてはいかん」

「はい」

長谷は冊子を見た。

「ずっと気になっていたことがあります」

「何じゃ」

「この冊子には、施設健全度や市民信頼度、未来可能性が数字で出ます」

長谷は、西部集会所で見た光景を思い出した。

「でも、盆踊りを練習していた人の顔は出ません。須藤さんが初めてお茶の席へ座って笑った瞬間も、子どもを連れた母親が誰かと話せて安心したことも、数字には表れません」

「そうじゃな」

「では、冊子の数字が良くなることと、街が良くなることは、同じではない」

萬代は、少しだけ目を細めた。

「そこに気づいたか、若い管財官」

冊子を閉じる。

「この冊子が示す数字は、街の一部じゃ。大切な一部ではある。だが、街のすべてではない」

「では、何のための数字なんでしょう」

「人間の営みを支える、最低限の土台が崩れるのを防ぐためかもしれん」

「最低限の土台が崩れる……」

「財政が破綻すれば、住民が集まる場所を支えることもできん。建物が朽ちれば、盆踊りの練習をする部屋もなくなる」

萬代は冊子の表紙に触れた。

「数字は、人間の営みが続くための土台が崩れていないかを知らせる。だが、その土台の上で何をするかまでは教えてくれん」

「数字は、目的ではない」

「そうじゃ」

「最低限を守った先に、数字だけでは表せないものがある」

「そして、それを生み出すのは、人間じゃ」

そのとき、地下資料室の扉が開いた。

石末が入ってきた。

長谷と萬代が顔を上げる。

石末が地下資料室へ来るのは、以前ほど珍しくなくなっていた。

「長谷。少しいいか」

「何かありましたか」

「包括管理委託の立入確認をしてきた」

石末は点検記録を机へ置いた。

「重大な問題があったわけじゃない。だが、少し気になる」

「何がですか」

「細かな変化へ、こちらが気づくのが遅くなっている」

長谷は記録を開いた。

「定期報告に漏れがあったんですか」

「報告義務に違反しているわけじゃない。受託者は仕様書どおりに動いている」

石末は腕を組んだ。

「以前は、俺たちが毎日のように現場へ行っていた。施設職員と話し、壁を見て、音を聞いていた」

「今は、技術職の定期立入が月二回です」

「仕様書どおりだ」

「頻度が足りないということですか」

「単純に回数を増やせばいいとは限らん」

石末は答えた。

「劣化が進んでいる施設と、状態が安定している施設を、同じ頻度で見る必要はない。異常報告が増えた施設や、修繕履歴が複雑な施設は、こちらが直接見る回数を増やすべきだ」

「リスクに応じて立入頻度を変える」

「そういうことだ」

石末は壁際へ歩き、打診棒で軽く壁を叩いた。

コン、コン。

返ってきた音に耳を澄ませる。

「便利な仕組みに任せきれば、職員が現場へ行く理由は減る」

もう一度、壁を叩く。

「現場へ行かなければ、劣化へ気づく目も鈍る。報告書の良し悪しを判断する力まで失う」

「技術職が現場を歩き続けることが必要だと」

「仕組みを生きた道具にするにはな」

石末は壁を見た。

「ここの躯体はまだ使える。仕上げを直せば持つ。建物は、見れば何かを返してくる」

「わかりました。施設のリスク区分に応じて、立入調査の頻度を見直します」

長谷は提案書を作成し、千々岩のもとへ持ち込んだ。

千々岩は資料に目を通した。

「立入回数を増やせば、職員の負担とコストは上がる」

「全施設を一律に増やす案ではありません」

長谷は説明した。

「劣化状況、修繕履歴、施設用途、受託者からの異常報告をもとに区分し、リスクの高い施設だけ頻度を上げます」

「根拠は?」

「試行期間中の報告と、石末さんの現場確認です」

千々岩は添付された記録を読んだ。

「……石末さんが、報告書だけでは拾えない変化があると言っているのか」

「はい」

千々岩は資料を閉じた。

「通す」

「ありがとうございます」

「感謝はいらない」

千々岩は言った。

「これが正しい変更だったかは、数年後の故障件数や修繕費を見なければわからない」

「検証を続けます」

「それでいい」

千々岩は提案書を返した。

「包括管理委託は道具だ。道具へ任せる範囲が増えるほど、発注者自身に評価する能力が必要になる」

「現場を見る目を失わないこと」

「そうだ」

長谷は少し笑った。

「千々岩さんも、FMがわかってきましたね」

千々岩は言った。

「お前たちに付き合っていれば、嫌でも覚える」

「迷惑でしたか」

「今さら聞くな」

夕方。

長谷は西部集会所へ立ち寄った。

盆踊りの練習が終わり、住民たちが椅子を片づけている。

橋本が長谷に気づいた。

「長谷さん。今日は人が増えたぞ」

「新しい参加者ですか」

「隣の地区から、見学に来た人がいた」

「隣の地区?」

「自分たちの集会所でも、同じようなことを始めたいらしい」

橋本は少し得意そうに言った。

「ここの話を聞いて、実際に見に来たんだと」

長谷は、以前なら冊子を取り出して数字を確かめていたかもしれない。

だが、その日は鞄へ手を伸ばさなかった。

隣の地区の住民が、西部集会所を見に来た。

その事実は、施設健全度にも、市民信頼度にも、直ちには表れない。

それでも、確かに起きた変化だった。

数字へ表れないから重要でないのではない。

数字へ表れない変化も見ながら、数字で土台の状態を確認する。

どちらか一方だけでは足りない。

翌日から、長谷は石末の現場確認へ、以前より頻繁に同行するようになった。

廃墟を見てきた目を、今使われている建物へ向ける。

石末が外壁をテストハンマーで叩く。

コン、コン。

ある箇所で、鈍い音に変わった。

「長谷。ここを聞け」

長谷も同じ場所を叩いた。

ボン、と空洞を含んだ音が返る。

「浮いています」

「そうだ」

石末はチョークで印をつけた。

「範囲を記録しろ。前回の結果とも比べる」

長谷は図面へ書き込んだ。

建物が発する小さな変化を、聞き逃さないように。

ある朝。

長谷は出勤すると、鞄から冊子を取り出した。

いつものように表紙の色を確認し、ページを開く。

何も書かれていなかった。

「……?」

もう一度、最初のページを開く。

白紙だった。

財政指標もない。

人口流出率もない。

施設健全度も、市民信頼度も、未来可能性もない。

長谷は、次々とページをめくった。

すべて白い。

最後のページに現れた、人のいない街の絵も消えていた。

一冊すべてが、ただの白紙になっている。

表紙を見る。

漆黒だった表紙は、純白へ変わっていた。

灰色は、どこにも残っていない。

「どういうことだ……」

長谷は冊子を抱え、地下資料室へ向かった。

扉を開く。

萬代は、いつもの場所で珈琲を飲んでいた。

「萬代さん」

「朝から慌ただしいな。どうした」

「冊子が……」

長谷は純白の冊子を差し出した。

「中身が、すべて消えています」

萬代は受け取り、ページをめくった。

一枚。

また一枚。

最後まで、何も書かれていない。

萬代はしばらく黙っていた。

「……そうか」

「壊れたんでしょうか」

「わからん」

「データが消えた?」

「それも、わからん」

「では、なぜ」

萬代は冊子を閉じた。

「必要がなくなったのかもしれん」

「必要がなくなった?」

長谷は思わず声を強くした。

「でも、この街にはまだ問題があります。人口は減っています。廃校も出ました。施設も閉鎖しました。財政だって、完全に改善したわけではありません」

「そのとおりじゃ」

「何も解決していません」

「すべてが解決したから白くなったとは、わしも思わん」

萬代は純白の表紙を見た。

「ただ、この街は以前より面白くなった。そう思わんか」

「面白い街?」

「施設が朽ちるのを、誰も気にしていなかった」

萬代は言った。

「今は、現場を確認する者がいる。数字を集める者がいる。住民へ話を聞きに行く者がいる。計画が止まれば、なぜ止まったかを確かめ、作り直そうとする者がいる」

「仕組みが動き始めた」

「うむ」

「だから、警告が必要なくなった?」

「警告がなければ動けない状態と、警告がなくても自分たちで異常に気づき、考え、動ける状態は違う」

萬代は冊子を長谷へ返した。

「安全になったわけではない。問題がなくなったわけでもない」

「自分たちで判断し、修正できるようになった」

「まだ、なり始めただけじゃがな」

長谷は、白いページを開いた。

何も書かれていない。

だが、以前のような空虚さは感じなかった。

これから何を書くかを、自分たちで決めるための余白に見えた。

「この冊子を、どうすればいいでしょう」

萬代は棚の奥へ目を向けた。

「来た場所へ返しなさい」

「最初に見つけた場所へ?」

「そうじゃ」

「もう使わないんですか」

「必要なら、また現れるかもしれん」

萬代は微笑んだ。

「次に誰かが同じ壁へぶつかった時にな」

「この街の誰かですか」

「この街とは限らん」

「では、どこへ行くんでしょう」

「わしに聞くな」

萬代は珈琲へ手を伸ばした。

「三十年この部屋にいても、知らなかった冊子じゃ。次に何をするかなど、わかるはずがない」

長谷は冊子を抱え、資料室の棚の間へ入った。

昭和四十八年度施設台帳の補遺。

最初に冊子を見つけた、あの場所。

長谷は台帳を少しずらし、純白の冊子を差し込んだ。

漆黒の表紙があった場所へ、今度は白い背表紙が収まった。

長谷は棚の前に立ち、しばらく動かなかった。

この冊子がなければ、LCCを知らなかった。

施設白書も作らなかった。

石末と現場を回ることもなかった。

森下の怒りを受け止めることも、田中の静かな諦めを知ることもなかった。

西部集会所に、人が戻ることもなかったかもしれない。

だが、冊子だけが街を変えたわけではない。

石末が現場を見た。

響矢が数字を整理した。

千々岩が政治へ届く道を作った。

諫山が知識と失敗を渡した。

住民が、自分たちの場所について話し始めた。

そして長谷自身も、冊子の数字を待たずに動くようになっていた。

最近、掲示板を開いていない。

書き込みかけて、途中でやめた夜が何度かあった。

中性化から答えが届く前に、現場へ行き、人へ聞き、自分なりの判断を始めていた。

――気づかないうちに、変わっていたのかもしれない。

長谷は棚から離れた。

資料室の扉を開ける。

廊下に、諫山が立っていた。

長谷が出てくるのを待っていたようだった。

「諫山さん」

「何だ」

「冊子が白くなりました」

「萬代から聞いた」

「元の棚へ戻しました」

「そうか」

「萬代さんは、自分たちで判断できるようになり始めたから、警告が必要なくなったのかもしれないと言っていました」

諫山は、少しだけ考えた。

「そうかもしれん。違うかもしれん」

「諫山さんも、わからないんですか」

「わからないものを、わかったふりをするなと教えたはずだ」

「はい」

諫山は廊下の先へ目を向けた。

「一つだけ、確かなことがある」

「何ですか」

「冊子が白くなっても、建物は劣化する」

「はい」

「人口も、財政も、住民の考えも変わり続ける。昨日正しかった計画が、明日も正しいとは限らん」

「判断を更新し続ける」

「現場を歩き続けろ」

諫山は長谷を見た。

「わかっているだけでは足りない。体を動かせ」

「はい」

「それから」

「何ですか」

「最近、掲示板が静かだ」

長谷は、諫山の顔を見た。

「書き込む前に、自分で考えることが増えました」

「ようやくログがきれいになった」

「もう、相談しなくていいということでしょうか」

「勝手にしろ」

諫山は歩き始めた。

数歩進み、背を向けたまま続ける。

「ただし、間違った方向へ走り出したら、こちらから止める」

長谷は少し笑った。

「それは、これからも見ていてくれるということですか」

諫山は振り返らなかった。

「都合よく解釈するな」

「中性化のアニキ」

諫山の足が止まった。

「アニキと呼ぶな。何度言わせる」

「すみません」

「謝るくらいなら、最初から呼ぶな」

声はいつもどおり厳しかった。

だが、長谷には、諫山がわずかに笑っているように見えた。

そのとき、廊下の向こうから石末が現れた。

工具袋を肩に掛けている。

「長谷。何をしている」

「何かありましたか」

「東部小学校で、新しい雨漏りが見つかった」

諫山が長谷を見る。

「行け」

「はい」

長谷は石末の隣へ並んだ。

二人の足音が、廊下に響く。

途中で振り返る。

地下資料室の扉は、既に閉じていた。

棚の奥には、純白の冊子が眠っている。

もう、数字は示されない。

だが、長谷がすべきことは変わらない。

データを見る。

現場を歩く。

人の話を聞く。

前提が変われば、判断を見直す。

街にとっての答えを、探し続ける。

「石末さん。雨漏りは、どの辺ですか」

「三階の理科室だ。天井のシミが昨日より広がっている」

「屋上防水の記録を確認します」

「車の中で見ろ。急ぐぞ」

二人は階段を下りていった。

新しい一日が、もう始まっていた。

この話のFM豆知識

(豆知識は準備中)

つづく

※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら