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第1巻 第20話

最適配分の限界

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北部市営住宅。

駅から離れた丘陵地に、五棟の住棟が並んでいる。

人口減少が進み、入居率は年々低下していた。建物の老朽化も深刻で、五棟のうちD棟とE棟は危険性が高いと判断され、新規の入居募集を停止している。

C棟にも劣化が見られた。

だが長谷は、全面修繕の予算化を保留していた。

理由はあった。

市が検討していたスマートシュリンクによる集約計画では、北部市営住宅を段階的に縮小し、入居者を交通利便性の高い別の市営住宅へ移転させる方針だった。

劣化の進んだ棟から新規入居を止める。

空室が増えた段階で住民の移転を進める。

全面修繕や建て替えを避け、浮いた財源と人員を集約先の整備へ回す。

理屈は通っていた。

石末も技術的に妥当だと判断した。萬代も、街全体で見れば合理的な選択だと言った。

ところが、新市長の就任によって集約計画は凍結された。

代わりに建て替え方針が示されたものの、対象施設も時期も決まっていない。

C棟は、修繕されないまま、移転も止まった。

中途半端な状態で、半年近くが過ぎていた。

その日、長谷は石末からの電話で現場へ呼び出された。

「長谷。すぐ来い。C棟のバルコニーからコンクリート片が落ちた」

「けが人は?」

「いない。落ちた場所の真下は、使用制限区域だった」

「住戸は?」

「空室だ。不幸中の幸いだな」

長谷が現地へ着くと、規制用のバリケードの内側に、剥落したコンクリート片が散らばっていた。

人は近づけないようになっている。

だが、隣接するB棟のバルコニーから、住民たちが不安そうにこちらを見ていた。

石末は、剥落箇所を見上げていた。

鉄筋が露出し、赤茶色の錆が流れている。

「中性化が進んだコンクリートは、鉄筋の腐食が外から見えない場所でも進む」

石末が言った。

「C棟では、以前から一部のひび割れに錆汁が出ていた。爆裂や剥離が起きる可能性はあった」

「予測できたんですか」

「可能性は読めた。だが、いつ、どこで落ちるかまではわからん」

石末はバルコニーを指した。

「ここは前回の調査時に入居中で、室内側から十分に確認できなかった箇所だ」

「それでも、危険性はあった」

「ああ」

石末は長谷を見た。

「移転が予定どおり進めば、全面修繕をせずに済む。そこまでの間は、応急対応と経過観察で持たせられる。お前も俺も、そう判断した」

「その前提が崩れた」

「そういうことだ」

石末は、剥落した破片へ目を落とした。

「優先順位をつけるというのは、判断した時点の条件で順番を決めることだ。条件が変われば、結果も変わる」

B棟から、一人の住民が近づいてきた。

「うちの棟は大丈夫なんですか」

石末が頭を下げた。

「本日中に、外壁の打診調査を行います。危険な箇所があれば、直ちに立入制限と応急処置をします」

「本日中って……」

住民の声が強くなった。

「移転すると言われたから待っていたら、急に計画が止まった。今度は建て替えるから大きな修理はできないと言われた。結局、どうなるんですか」

石末はすぐには答えなかった。

長谷も隣に並び、頭を下げた。

「現時点で、建て替えや移転の時期は決まっていません」

長谷は答えた。

「まず今日、各棟の危険箇所を確認します。安全を確保するために必要な応急措置は行います」

「また応急処置ですか」

住民は、C棟を見上げた。

「いつまで待てばいいんですか」

長谷は答えられなかった。

管財課へ戻ると、響矢が資料を持って近づいてきた。

「北部市営住宅の予算状況を確認しました」

「緊急対応に使える予算はありますか」

「C棟の健全度評価は、D棟、E棟ほど低くありません。ただし、今回の剥落を反映すれば再評価が必要です」

響矢は資料を開いた。

「住宅関連の予備費は、先日の豪雨による緊急補修ですでに使われています。現時点で、全面的な修繕へ直ちに充てられる財源はありません」

「応急措置は?」

「安全確保に必要な最小限の工事であれば、別の緊急対応枠を調整できる可能性があります。ただし、大規模な外壁改修は補正予算が必要です」

「すぐには動けない」

「はい」

そこへ千々岩が姿を見せた。

ごみ処理施設から戻って以降も正式な所属は変わっていないが、鴇田市長の指示で公共施設再整備の調整に関わっていた。

「北部住宅の件で、市長宛ての請願が入った」

長谷は尋ねた。

「住民が来るんですか」

「明日、市役所で話を聞く。市長は公務で出られないため、俺が請願書を受け取る」

千々岩は長谷を見る。

「お前も同席しろ」

「俺がですか」

「C棟の修繕を保留した判断に関わった人間だ。当然だ」

「あの判断は、間違っていたんでしょうか」

千々岩は答えなかった。

「それを住民の前で考えるな。明日までに、事実関係と現在できる対応を整理しておけ」

長谷は、考えがまとまらないまま地下資料室へ向かった。

石末が既に来ていた。

諫山も、資料を読んでいる。

「諫山さん」

「何だ」

「明日、北部市営住宅の住民から話を聞きます。でも、何を言えばいいのかわかりません」

諫山は言った。

「最初にすべきことは、話すことではない」

「聞くことですか」

「そうだ」

諫山は資料を閉じた。

「住民は、行政の判断根拠を聞きに来るとは限らない。今、自分たちが危険なのか。いつまで待つのか。自分たちは見捨てられていないのか。それを確かめに来る」

「説明しなくていいんですか」

「聞かれたことには答えろ。事実も隠すな」

諫山は続けた。

「だが、相手が不安を話している最中に、優先順位や財政制約を説明し始めるな。自分の判断を正当化するための言葉に聞こえる」

「C棟を保留した責任は、俺にあります」

「お前一人の判断ではない」

「でも、俺も選びました」

「なら、その結果から目を逸らすな」

諫山は長谷を見た。

「責任を取るというのは、何でも自分のせいだと言って頭を下げることではない」

「では、何ですか」

「決めた順番によって生じた結果を見続けることだ。状況が変わったなら、判断を更新する。できることと、できないことを明確にする。住民の言葉を、次の判断へ持ち帰る」

石末が続けた。

「住民が欲しいのは、技術的に正しい説明だけじゃない」

「安心、ですか」

「そうだ」

石末は腕を組んだ。

「だが、安心させるために、できない約束をするな。調べると言ったら調べる。応急処置をすると言ったらやる。次の回答日を決めたら守る」

「言葉より、その後の行動」

「それしかない時もある」

長谷は頷いた。

理解できたとは言えなかった。

だが、明日何をしなければならないかは見えた。

翌日。

本庁・市長室前の待合スペース。

北部市営住宅のA棟からC棟に住む有志が、市長宛ての請願書を手に集まっていた。

中心にいるのは、佐伯まつ子。七十代の女性だった。

隣には、数名の住民が並んでいる。

対応に出たのは千々岩だった。

長谷は、その隣に資料を抱えて立った。

「本日は市長が公務で不在のため、私が請願書をお預かりします」

千々岩が頭を下げた。

「内容は、市長へ直接報告します」

佐伯が請願書を差し出した。

「必ず伝えてください」

「はい」

「C棟でコンクリートが落ちたでしょう」

佐伯の声は震えていた。

「次はうちの棟じゃないかと思うと、夜も眠れないんです」

「昨日、A棟とB棟についても打診調査を実施しました」

千々岩が答える。

「直ちに広い範囲を使用禁止にする状態ではありませんでした。ただし、一部に補修が必要な箇所が見つかっています」

「直ちに、じゃないなら、いつ危なくなるんですか」

「継続して状態を確認します。危険箇所には応急処置を行います」

「また経過観察ですか」

佐伯が言った。

「ずっと、そう言われてきました。移転すると言われたから待っていた。今度は建て替えると言われた。でも、どちらもいつになるかわからない」

「集約移転の計画は、市長交代後に見直しとなりました」

千々岩は答えた。

「現時点では、以前の予定どおりに進めることができません」

「それは、私たちのせいじゃないですよね」

「はい。皆さんの責任ではありません」

「では、誰の責任なんですか」

千々岩は答えなかった。

誰か一人の名前を挙げれば済む問題ではない。

だが、その説明で住民の不安が消えるわけでもなかった。

佐伯が長谷を見た。

「あんた、前に点検の説明に来た人でしょう」

「はい」

「あのときは、建物の変化を知らせてくださいと言っていた」

「覚えています」

「今日は、何か言ってくれないの」

長谷は口を開いた。

優先順位を決めた根拠は説明できる。

移転計画を前提に、C棟を修繕対象から外した理由も説明できる。

だが、今の佐伯が聞きたいのは、その話ではない。

長谷は頭を下げた。

「長い間、不安な状態のままお待たせしています。申し訳ありません」

佐伯は黙っていた。

長谷は続けた。

「昨日の調査で見つかった危険箇所は、今週中に応急措置を行います。C棟については、使用制限の範囲を広げます」

「その後は?」

「全面修繕、移転、建て替えのどれを選ぶかは、まだ決まっていません」

佐伯の表情が曇った。

「決まっていないんですね」

「はい」

長谷はごまかさなかった。

「今日、確実にお約束できるのは、安全確認と応急措置です。今後の方針については、期限を決めて回答します」

千々岩が長谷を見る。

長谷は続けた。

「一か月以内に、住宅部門、財政課、管財課で方針案を整理し、皆さんへ説明する場を設けます」

「一か月後には、直すか移るかが決まるんですか」

「最終決定まではできない可能性があります」

長谷は答えた。

「ですが、何を検討していて、いつまでに何を決めるのかは示します。このまま何もわからない状態にはしません」

佐伯は、長谷をじっと見た。

「謝ってほしいわけじゃないのよ」

「はい」

「直るのか、移るのか。それを知りたいだけなの」

「わかっています」

「本当に?」

長谷はすぐに答えられなかった。

「……今日、初めてわかったのかもしれません」

佐伯は小さく息を吐いた。

「そう」

住民たちが帰り始めた。

最後に、佐伯が振り返った。

「あんたたちだけが悪いとは、私も思ってないよ」

長谷と千々岩を見る。

「でも、悪くない人ばかりだと、誰に怒ればいいのかわからなくなるね」

佐伯は、そのまま廊下を歩いていった。

長谷は、後を追わなかった。

その言葉だけが、待合スペースに残った。

夜。

地下資料室。

長谷は一人で机に座っていた。

棚の隅には、薄い灰色へ変わった黒い冊子が置かれている。

長谷は手に取らなかった。

諫山に言われたとおり、住民の話を聞いた。

判断の理由を並べなかった。

できない約束もしなかった。

それでも、佐伯は今夜も不安を抱えたまま眠るのだろう。

長谷は、C棟を修繕対象から外した当時の資料を開いた。

D棟とE棟の危険度。

C棟の健全度。

移転予定。

限られた予算。

当時の条件では、今も同じ順番を選ぶと思う。

選定した三施設にも、修繕を急ぐ理由があった。

判断が杜撰だったとは思わない。

だが、前提となった移転計画は止まった。

その後も、判断を更新しないまま半年が過ぎた。

問題があったとすれば、最初の順番だけではない。

条件が変わったあとに、誰も決め直さなかったことだ。

――誰に怒ればいいのかわからなくなるね。

佐伯の言葉は、長谷自身にも向けられているように感じた。

政治が変わった。

計画が止まった。

予算がなかった。

どれも事実だ。

だが、それらを並べても、住民の不安は誰にも引き受けられない。

長谷は机の引き出しから、新しいノートを取り出した。

表紙に文字を書く。

――判断記録。

最初のページを開いた。

「北部市営住宅C棟」

判断した日。

判断時の前提。

使用したデータ。

選ばなかった選択肢。

想定していたリスク。

判断後に変化した条件。

実際に生じた結果。

次に見直す期限。

一つずつ、項目を書いた。

最後に、短い文章を残した。

「資源の配分には限界がある。その限界の外側にも、人はいる」

少し考え、もう一行加えた。

「判断は、決めた時点で終わらない。前提が変わった時に、決め直さなければならない」

長谷はペンを置いた。

それ以上の言葉は、まだ出てこなかった。

この話のFM豆知識

(豆知識は準備中)

つづく

※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら