最適配分の限界
北部市営住宅。
駅から離れた丘陵地に、五棟の住棟が並んでいる。
人口減少が進み、入居率は年々低下していた。建物の老朽化も深刻で、五棟のうちD棟とE棟は危険性が高いと判断され、新規の入居募集を停止している。
C棟にも劣化が見られた。
だが長谷は、全面修繕の予算化を保留していた。
理由はあった。
市が検討していたスマートシュリンクによる集約計画では、北部市営住宅を段階的に縮小し、入居者を交通利便性の高い別の市営住宅へ移転させる方針だった。
劣化の進んだ棟から新規入居を止める。
空室が増えた段階で住民の移転を進める。
全面修繕や建て替えを避け、浮いた財源と人員を集約先の整備へ回す。
理屈は通っていた。
石末も技術的に妥当だと判断した。萬代も、街全体で見れば合理的な選択だと言った。
ところが、新市長の就任によって集約計画は凍結された。
代わりに建て替え方針が示されたものの、対象施設も時期も決まっていない。
C棟は、修繕されないまま、移転も止まった。
中途半端な状態で、半年近くが過ぎていた。
その日、長谷は石末からの電話で現場へ呼び出された。
「長谷。すぐ来い。C棟のバルコニーからコンクリート片が落ちた」
「けが人は?」
「いない。落ちた場所の真下は、使用制限区域だった」
「住戸は?」
「空室だ。不幸中の幸いだな」
長谷が現地へ着くと、規制用のバリケードの内側に、剥落したコンクリート片が散らばっていた。
人は近づけないようになっている。
だが、隣接するB棟のバルコニーから、住民たちが不安そうにこちらを見ていた。
石末は、剥落箇所を見上げていた。
鉄筋が露出し、赤茶色の錆が流れている。
「中性化が進んだコンクリートは、鉄筋の腐食が外から見えない場所でも進む」
石末が言った。
「C棟では、以前から一部のひび割れに錆汁が出ていた。爆裂や剥離が起きる可能性はあった」
「予測できたんですか」
「可能性は読めた。だが、いつ、どこで落ちるかまではわからん」
石末はバルコニーを指した。
「ここは前回の調査時に入居中で、室内側から十分に確認できなかった箇所だ」
「それでも、危険性はあった」
「ああ」
石末は長谷を見た。
「移転が予定どおり進めば、全面修繕をせずに済む。そこまでの間は、応急対応と経過観察で持たせられる。お前も俺も、そう判断した」
「その前提が崩れた」
「そういうことだ」
石末は、剥落した破片へ目を落とした。
「優先順位をつけるというのは、判断した時点の条件で順番を決めることだ。条件が変われば、結果も変わる」
B棟から、一人の住民が近づいてきた。
「うちの棟は大丈夫なんですか」
石末が頭を下げた。
「本日中に、外壁の打診調査を行います。危険な箇所があれば、直ちに立入制限と応急処置をします」
「本日中って……」
住民の声が強くなった。
「移転すると言われたから待っていたら、急に計画が止まった。今度は建て替えるから大きな修理はできないと言われた。結局、どうなるんですか」
石末はすぐには答えなかった。
長谷も隣に並び、頭を下げた。
「現時点で、建て替えや移転の時期は決まっていません」
長谷は答えた。
「まず今日、各棟の危険箇所を確認します。安全を確保するために必要な応急措置は行います」
「また応急処置ですか」
住民は、C棟を見上げた。
「いつまで待てばいいんですか」
長谷は答えられなかった。
管財課へ戻ると、響矢が資料を持って近づいてきた。
「北部市営住宅の予算状況を確認しました」
「緊急対応に使える予算はありますか」
「C棟の健全度評価は、D棟、E棟ほど低くありません。ただし、今回の剥落を反映すれば再評価が必要です」
響矢は資料を開いた。
「住宅関連の予備費は、先日の豪雨による緊急補修ですでに使われています。現時点で、全面的な修繕へ直ちに充てられる財源はありません」
「応急措置は?」
「安全確保に必要な最小限の工事であれば、別の緊急対応枠を調整できる可能性があります。ただし、大規模な外壁改修は補正予算が必要です」
「すぐには動けない」
「はい」
そこへ千々岩が姿を見せた。
ごみ処理施設から戻って以降も正式な所属は変わっていないが、鴇田市長の指示で公共施設再整備の調整に関わっていた。
「北部住宅の件で、市長宛ての請願が入った」
長谷は尋ねた。
「住民が来るんですか」
「明日、市役所で話を聞く。市長は公務で出られないため、俺が請願書を受け取る」
千々岩は長谷を見る。
「お前も同席しろ」
「俺がですか」
「C棟の修繕を保留した判断に関わった人間だ。当然だ」
「あの判断は、間違っていたんでしょうか」
千々岩は答えなかった。
「それを住民の前で考えるな。明日までに、事実関係と現在できる対応を整理しておけ」
長谷は、考えがまとまらないまま地下資料室へ向かった。
石末が既に来ていた。
諫山も、資料を読んでいる。
「諫山さん」
「何だ」
「明日、北部市営住宅の住民から話を聞きます。でも、何を言えばいいのかわかりません」
諫山は言った。
「最初にすべきことは、話すことではない」
「聞くことですか」
「そうだ」
諫山は資料を閉じた。
「住民は、行政の判断根拠を聞きに来るとは限らない。今、自分たちが危険なのか。いつまで待つのか。自分たちは見捨てられていないのか。それを確かめに来る」
「説明しなくていいんですか」
「聞かれたことには答えろ。事実も隠すな」
諫山は続けた。
「だが、相手が不安を話している最中に、優先順位や財政制約を説明し始めるな。自分の判断を正当化するための言葉に聞こえる」
「C棟を保留した責任は、俺にあります」
「お前一人の判断ではない」
「でも、俺も選びました」
「なら、その結果から目を逸らすな」
諫山は長谷を見た。
「責任を取るというのは、何でも自分のせいだと言って頭を下げることではない」
「では、何ですか」
「決めた順番によって生じた結果を見続けることだ。状況が変わったなら、判断を更新する。できることと、できないことを明確にする。住民の言葉を、次の判断へ持ち帰る」
石末が続けた。
「住民が欲しいのは、技術的に正しい説明だけじゃない」
「安心、ですか」
「そうだ」
石末は腕を組んだ。
「だが、安心させるために、できない約束をするな。調べると言ったら調べる。応急処置をすると言ったらやる。次の回答日を決めたら守る」
「言葉より、その後の行動」
「それしかない時もある」
長谷は頷いた。
理解できたとは言えなかった。
だが、明日何をしなければならないかは見えた。
翌日。
本庁・市長室前の待合スペース。
北部市営住宅のA棟からC棟に住む有志が、市長宛ての請願書を手に集まっていた。
中心にいるのは、佐伯まつ子。七十代の女性だった。
隣には、数名の住民が並んでいる。
対応に出たのは千々岩だった。
長谷は、その隣に資料を抱えて立った。
「本日は市長が公務で不在のため、私が請願書をお預かりします」
千々岩が頭を下げた。
「内容は、市長へ直接報告します」
佐伯が請願書を差し出した。
「必ず伝えてください」
「はい」
「C棟でコンクリートが落ちたでしょう」
佐伯の声は震えていた。
「次はうちの棟じゃないかと思うと、夜も眠れないんです」
「昨日、A棟とB棟についても打診調査を実施しました」
千々岩が答える。
「直ちに広い範囲を使用禁止にする状態ではありませんでした。ただし、一部に補修が必要な箇所が見つかっています」
「直ちに、じゃないなら、いつ危なくなるんですか」
「継続して状態を確認します。危険箇所には応急処置を行います」
「また経過観察ですか」
佐伯が言った。
「ずっと、そう言われてきました。移転すると言われたから待っていた。今度は建て替えると言われた。でも、どちらもいつになるかわからない」
「集約移転の計画は、市長交代後に見直しとなりました」
千々岩は答えた。
「現時点では、以前の予定どおりに進めることができません」
「それは、私たちのせいじゃないですよね」
「はい。皆さんの責任ではありません」
「では、誰の責任なんですか」
千々岩は答えなかった。
誰か一人の名前を挙げれば済む問題ではない。
だが、その説明で住民の不安が消えるわけでもなかった。
佐伯が長谷を見た。
「あんた、前に点検の説明に来た人でしょう」
「はい」
「あのときは、建物の変化を知らせてくださいと言っていた」
「覚えています」
「今日は、何か言ってくれないの」
長谷は口を開いた。
優先順位を決めた根拠は説明できる。
移転計画を前提に、C棟を修繕対象から外した理由も説明できる。
だが、今の佐伯が聞きたいのは、その話ではない。
長谷は頭を下げた。
「長い間、不安な状態のままお待たせしています。申し訳ありません」
佐伯は黙っていた。
長谷は続けた。
「昨日の調査で見つかった危険箇所は、今週中に応急措置を行います。C棟については、使用制限の範囲を広げます」
「その後は?」
「全面修繕、移転、建て替えのどれを選ぶかは、まだ決まっていません」
佐伯の表情が曇った。
「決まっていないんですね」
「はい」
長谷はごまかさなかった。
「今日、確実にお約束できるのは、安全確認と応急措置です。今後の方針については、期限を決めて回答します」
千々岩が長谷を見る。
長谷は続けた。
「一か月以内に、住宅部門、財政課、管財課で方針案を整理し、皆さんへ説明する場を設けます」
「一か月後には、直すか移るかが決まるんですか」
「最終決定まではできない可能性があります」
長谷は答えた。
「ですが、何を検討していて、いつまでに何を決めるのかは示します。このまま何もわからない状態にはしません」
佐伯は、長谷をじっと見た。
「謝ってほしいわけじゃないのよ」
「はい」
「直るのか、移るのか。それを知りたいだけなの」
「わかっています」
「本当に?」
長谷はすぐに答えられなかった。
「……今日、初めてわかったのかもしれません」
佐伯は小さく息を吐いた。
「そう」
住民たちが帰り始めた。
最後に、佐伯が振り返った。
「あんたたちだけが悪いとは、私も思ってないよ」
長谷と千々岩を見る。
「でも、悪くない人ばかりだと、誰に怒ればいいのかわからなくなるね」
佐伯は、そのまま廊下を歩いていった。
長谷は、後を追わなかった。
その言葉だけが、待合スペースに残った。
夜。
地下資料室。
長谷は一人で机に座っていた。
棚の隅には、薄い灰色へ変わった黒い冊子が置かれている。
長谷は手に取らなかった。
諫山に言われたとおり、住民の話を聞いた。
判断の理由を並べなかった。
できない約束もしなかった。
それでも、佐伯は今夜も不安を抱えたまま眠るのだろう。
長谷は、C棟を修繕対象から外した当時の資料を開いた。
D棟とE棟の危険度。
C棟の健全度。
移転予定。
限られた予算。
当時の条件では、今も同じ順番を選ぶと思う。
選定した三施設にも、修繕を急ぐ理由があった。
判断が杜撰だったとは思わない。
だが、前提となった移転計画は止まった。
その後も、判断を更新しないまま半年が過ぎた。
問題があったとすれば、最初の順番だけではない。
条件が変わったあとに、誰も決め直さなかったことだ。
――誰に怒ればいいのかわからなくなるね。
佐伯の言葉は、長谷自身にも向けられているように感じた。
政治が変わった。
計画が止まった。
予算がなかった。
どれも事実だ。
だが、それらを並べても、住民の不安は誰にも引き受けられない。
長谷は机の引き出しから、新しいノートを取り出した。
表紙に文字を書く。
――判断記録。
最初のページを開いた。
「北部市営住宅C棟」
判断した日。
判断時の前提。
使用したデータ。
選ばなかった選択肢。
想定していたリスク。
判断後に変化した条件。
実際に生じた結果。
次に見直す期限。
一つずつ、項目を書いた。
最後に、短い文章を残した。
「資源の配分には限界がある。その限界の外側にも、人はいる」
少し考え、もう一行加えた。
「判断は、決めた時点で終わらない。前提が変わった時に、決め直さなければならない」
長谷はペンを置いた。
それ以上の言葉は、まだ出てこなかった。
この話のFM豆知識
(豆知識は準備中)
※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら
一般財団法人 建築保全センター