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いちばん近い建物 第7話

三百人を送り出す

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四月。実施設計から施工計画へ移る段階に入った。

長谷は素直な案を持っていた。

まとまった人数を庁外へ出す。空いたフロアを大きな工区にして、上から順に改修する。細かく移転と復帰を繰り返すより、引越しも設備の切替も回数が減る。

その案を関係者に配り、条件を出してもらう会議を開いた。四月の下旬だった。

会議室に六人が座った。宇津木、石末、藤岡、響矢、ICT担当、それに各原課の代表である。

長谷はホワイトボードに条件を書き出していった。

宇津木が最初に話した。

「上三層の解体には、直下を含めた立入禁止区画が要ります。振動と落下物、それに仮設の荷重を考えると、四階だけでは足りません。三階の相当部分も、工事期間中は使えないと考えてください」

長谷は書き取った。四階閉鎖、三階も大部分。

石末が続けた。

「解体と並行して新しい屋根と防水をやるなら、雨仕舞いが決まるまで下に水が回る恐れがある。工程を分ければ安全だが、その分、工期が延びる」

藤岡が顔を上げた。

「三階まで使えないんですか」

「そうなります」

「それは困ります」

藤岡は自分の資料を開いた。

「窓口の後ろで、審査をやっています。電話も、書類の確認も、決裁も、あそこでやっている。一階と二階だけでは、市民サービスは回りません」

ICT担当が手を挙げた。

「一つ、お願いがあります」

「はい」

「端末と回線の移設を、細かく何度も繰り返すのはやめてください。切替のたびに障害の危険があります。回数は、できるだけ少なくしていただきたい」

長谷は書いた。切替回数を減らす。

響矢が資料をめくった。

「仮庁舎について確認します。庁外へ出す人数が増えれば、その分、借りる場所が要ります」

「そうなります」

「賃借料が増えると、事業費の前提が崩れます。減築で浮く分が、そこで消えます」

原課の代表が言った。

「そもそも、一度に三百人以上を出されると困ります。窓口と連携している部署もあります。書類のやり取りも、離れれば時間がかかる」

長谷はホワイトボードを見た。

条件が並んでいる。

ICTは、切替の回数を減らしてほしいと言う。回数を減らすには、工区を大きくするしかない。工区を大きくすれば、庁外へ出す人数が増える。人数が増えれば、仮庁舎が要る。仮庁舎を増やせば、財政の前提が壊れる。

だから人数を抑える。抑えれば工区が小さくなる。工区が小さくなれば、移転と復帰の回数が増える。切替の回数が増える。

一周した。

長谷は、ホワイトボードの前でしばらく動かなかった。

誰も、間違ったことを言っていない。宇津木の条件は構造として正しい。石末の心配は現場として正しい。藤岡は市民サービスとして正しく、ICT担当は障害対策として正しく、響矢は財政として正しく、原課は業務として正しい。

それぞれが、自分の持ち場について、正確に答えている。

そして、成立する組み合わせが一つもない。

会議室が静かになった。

桜井が口を開いた。

「今日は、ここまでにするか。持ち帰って——」

長谷は、そこで顔を上げた。

持ち帰る。

あの綴りに綴じられていた資料の、決裁欄が空白だった理由が、それだった。

補強の概算を出した人も、移転を検討した人も、財源を試算した人も、みな正しい答えを出して、そのうえで持ち帰っていた。四年か五年に一度、同じ会議が開かれ、同じところで止まっていた。

今、自分が同じことをしようとしている。

「桜井さん」

長谷は言った。

「一週間ください」

「案があるのか」

「まだありません。ただ、持ち帰りにはしたくない」

長谷はホワイトボードを見た。

「条件は変えません。全部、正しいと思います。前提を一つ、外してみます」

長谷が外したのは、本庁舎の中で人を動かす、という前提だった。

会議の間、全員が同じことを話していた。本庁舎という一棟の中で、どのフロアを空け、どこへ移すか。だから、三階が使えないという条件が、そのまま市民サービスの停止に直結していた。

出せる場所は庁外の仮庁舎しかなく、仮庁舎を借りれば金がかかる。その一本道で考えていた。

長谷は、自分の手元にある資料を並べ直した。

庁内で施設を扱ってきた五年分の情報だった。

防災棟。二階建て。災害対策本部と危機管理課、教育委員会が入っている。会議室と研修室に余裕があった。そして何より、ICTの中枢がここにある。回線は、既に生きている。

市有施設の一覧。公民館、地区センター、旧保健センター。第二話と第四話の調査で、どこに低利用の会議室と事務スペースがあるかを把握していた。学校の統廃合を検討したときから、この種の資料は作り続けている。

青葉重工業の多目的ホール。災害時の協定で関係ができていた。

そして、本庁舎の一階と二階。ここは最後まで残す。

長谷は、それらを地図の上に落とした。

別々の施設として見るのをやめた。工事期間中の、一つの市役所として並べた。

そのうえで、業務の性質ごとに置き場所を割り振っていった。

市民が来る窓口と、それに直結する後方の事務は、本庁舎の一階と二階に残す。ここは動かさない。

回線と端末を大量に使う内部管理の事務は、防災棟へ。回線が既にあるから、新たに引く必要がない。切替も一度で済む。

来庁者の少ない相談、審査、内部の調整は、市有施設の低利用スペースへ分散する。会議室単位で使えば、大がかりな造作は要らない。

まとまった執務スペースが要る部署は、青葉重工業の多目的ホールを中核として使う。

三百人を一か所に出す計画ではなくなった。業務の性質ごとに、市内の複数の施設へ機能を分散させる計画になった。

一か所に集めないから、大きな仮庁舎を借りずに済む。既存の市有施設を使うから、賃借料が抑えられる。防災棟に回線があるから、ICTの切替の回数を減らせる。分散するから、原課ごとに出す人数と時期を調整できる。

ただし、代わりに増えるものがあった。

庁内便。郵便の仕分け。電話の転送。会議のたびの職員の移動。決裁を回す時間。市民への案内。どこへ行けばどの手続きができるのかを、六か所分、示さなければならない。

床を分けたからといって、組織まで分けてよいわけではない。分ければ、つなぐ仕事が増える。

長谷は、その費用と手間も積み上げて、もう一度並べ直した。それでも、一か所にまとめて借りるより収まった。

長谷は、第六話で自分が作った表を横に置いた。

来庁者対応。災害対応。議会運営。基幹行政事務。

止められない四つ。その置き場所の欄が、埋まっていた。

五月。長谷は案を持って桜井のところへ行った。

桜井は資料をめくり、途中で手を止めた。市内の地図に、施設が六つ落としてある一枚だった。

「長谷」

「はい」

「これはもう、管財課だけで決められる話じゃない」

そのとおりだった。

総務課の窓口配置を動かす。財政課の予算の組み方を変える。ICT部門に回線設計をやり直させる。各部局の職員を市内に分散させる。青葉重工業と新しく契約を結ぶ。市有施設の使い方を一時的に変更する。議会にも説明が要る。

係長の権限では、どれも決められない。

長谷は頷いた。

「分かっています。だから、庁議に上げてください」

桜井は資料を閉じた。それから、もう一度開いた。

「説明は」

「私がします」

六月、庁議。

長谷は桜井とともに説明に立った。配ったのは、図面ではなかった。市内の地図に施設を落とした一枚である。工事期間中、市役所がどこにどう分かれているかを示したものだった。

説明が終わると、沢田市長が聞いた。

「これで失敗したら、誰が責任を取るんだ」

長谷は答えた。

「私一人が取れる責任ではありません」

庁議室が静かになった。

「総務も、財政も、ICTも、各部局も動きます。市有施設の使い方も変えます。民間とも契約します。市として決めていただかないと、動かせません」

長谷は市長を見た。

「だから、ここで決めていただきたいんです」

沢田市長は、しばらく資料を見ていた。

それから、庁議室を見回した。

「ほかに、成立する案はあるか」

誰も出さなかった。

「決める」

市長は言った。

八月。移転が始まった。

三百人が、一か所ではなく市内の数か所に分かれて出ていった。総務課も対象に含まれている。

青葉重工業とは、改めて協議した。災害時の協定は、平時の工事のために当然に使えるものではない。別に契約を結び、手続きを踏んだ。交渉は簡単ではなかったが、協定を結んだときに築いた関係が、下地として効いた。

藤岡が段ボールを台車に積みながら、長谷に言った。

「戻ってくる場所は、ちゃんとありますよね」

「あります」

長谷は答えた。

九月。長谷は自分の席で、市内の地図を眺めていた。

青葉市役所という組織が、今、六つの建物に分かれて動いている。

石末が乾に図面を渡しながら、そばで言った。

「それは長谷に持ってけ。あいつが全体を見てる」

長谷は顔を上げなかった。

地図の上で、六つの点が線でつながっている。窓口はここ。審査はここ。回線はここ。会議はここ。議会はここ。

一つ一つは、これまで誰かが正しく答えたものだった。

それを、今、一つの市役所として動かしている。

この話のFM豆知識

FMの教訓:一か所への仮移転が難しいときは、業務ごとに複数の建物へ移せるかを調べる。

◆ この話で扱う仕事

関係するFMの仕事:プロジェクト管理/運営維持の運用・サービス

仮移転では、部屋の広さに加え、受付、電話、回線、会議、書類の運び方を決めます。建物を借りたり、働く場所を整えたりすることも、プロジェクト管理の仕事です。移転後の受付や連絡は、運用・サービスの仕事になります。総務、人事、情報通信(ICT)、財政、施設の担当が、それぞれに必要な作業と費用を確認します。

◆ 一つの条件を変えると、他の担当が何に困るかを並べる

一度に工事する範囲を広げると、移す職員が増えます。移す人数を減らすため工事を細かく分けると、回線の切替えや引越しの回数が増えます。各担当の希望を別々に聞くだけでは、実行できる案になりません。人数、工事範囲、切替え回数、費用を同じ表に並べ、どの条件がぶつかっているかを確かめます。

◆ 業務ごとに、移せる場所を探す

例えば、来庁者の多い部署と、電話や回線があれば働ける部署では、移転先に必要な条件が違います。市有施設や借りられる建物を調べ、業務ごとに候補を探します。分かれて働く場合は、庁内便、職員の移動、電話転送、市民への案内にかかる手間と費用も数えます。空いている部屋があるだけでは、移転先に決められません。

◆ 物語の場面

会議で条件を合わせると、一度に工事する範囲、移す人数、回線の切替え、費用がぶつかり、案が決まりません。長谷は一週間で、市内の複数施設へ業務ごとに分けて移す案を作ります。青葉重工業の施設を平時に使うため、災害時の協定とは別に契約します。市長が全体の条件を見て決め、六つの建物で市役所の仕事を続けることになります。

■ 担当者が行うこと

仮移転の案が決まらないときは、一か所に集める必要があるか、全員を同時に移す必要があるかを確かめてください。部署ごとに来庁者、回線、書類、他課との連絡を調べ、移転先と移す日を決めます。分散で増える費用も合計します。外部施設を使う場合は、使用目的、期間、費用、管理の分担を確認し、必要な契約を結びます。

確認する法令・計画・庁内のルールなど

  • 各自治体の契約規則・財産管理規程:仮庁舎として使えるか、借りる契約や財産の使用手続きが必要かを確認します。
  • 災害時の協定など:協定で認められる利用の目的と範囲を読みます。平時の利用は、別の契約や手続きが必要かを確認します。
つづく

※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら