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第1巻 第3話

モグラ叩きの現場

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朝、営繕課。石末のデスクに付箋が鱗のように貼られている。「東部小学校・雨漏り至急」「南部公民館・トイレ詰まり」「西部支所・外壁剥落危険」。電話が鳴り続けていた。

「営繕課だ。……また雨漏りか。今日中に行く」

石末が受話器を置いた瞬間、また別の電話が鳴る。石末が無言でまた取った。

営繕課は、毎日これだ。

市内には161の施設がある。それに対し、現場を担当する営繕技術職は、石末を含めて三人しかいない。

電話が鳴るたびに、石末が現場へ飛ぶ。部下が別の現場へ飛ぶ。ひとつ直している間に、別の施設で不具合が起きる。

まるでモグラ叩きだと、長谷は思った。

三階の教室に入ると、床にいくつものバケツが並べられていた。先週の雨を境に、天井の茶色い染みが一気に広がったという。

教頭が二人を出迎えた。

「先週の雨から、ずっとこの状態です。授業中にも水滴が落ちてきます。私たちには、バケツを置くことしかできなくて……」

石末が天井を見上げ、目を細めた。

「屋上防水の寿命だろう。全面やり直しが必要になる」

「費用は、どのくらいですか」

「最低でも800万。予算に空きがあれば来年度に組めるが……」

教頭の顔が曇った。

「来年度まで待てません。今も雨が降るたびにバケツを並べているんです。子どもが授業中に天井を見上げてしまうんです。」

石末がため息をひとつついた。

「応急処置だけやる。できればこの部屋は使用禁止にしてくれ。根本的な解決は来年度以降だ。」

教頭が頭を下げる。石末が次の現場の電話に出ていた。

別の現場。公民館のトイレ。石末の部下が詰まりを解消している。その作業がまだ終わらないうちに、次の連絡が入った。

部下が電話を耳に当てたまま、石末に告げた。

「石末さん、支所の外壁です。別の箇所でも剥離が見つかったそうです。すぐに来てほしいと」

「わかった。今行く」

石末が工具袋を担ぎ、歩き出す。長谷もその横に並ぶ。

「石末さん、今日だけで何件目ですか」

「数えてない。数えたって意味がない」

「このまま続けていたら――」

「わかってる」

石末は前を向いたまま答えた。

「だが、今日の雨漏りを止めなければ、明日の授業を始められない。今の俺にできるのは、それだけだ」

長谷には返す言葉がなかった。

今日起きた問題を、今日直す。

石末には、その積み重ね以外の道がなかった。

夕方。

営繕課に戻った石末は、疲れた顔のまま図面を広げていた。

長谷は声をかけた。

「石末さん。施設白書のデータでは、今日回った三施設は、すべて築三十年以上です。同じような施設が、市内に百棟以上あります」

「知ってる」

「このまま不具合が増え続けたら――」

「追いつかなくなる」

石末が図面から目を上げた。

「だが、先手は打てない。俺たちは、壊れたものしか直せない」

そう言って、再び図面に目を落とす。

壊れたものしか直せない。

石末が図面に目を戻した。長谷は何も言えなかった。

壊れたものしか直せない――。

石末が怠けているわけではない。技術がないわけでもない。

予算がなければ動けない。壊れたという事実がなければ、修繕の必要性を認めてもらえない。

その現実のなかで、石末は今日も現場を走り続けている。

長谷は、その背中を黙って見ていた。

深夜。

長谷の自宅では、今夜もPCの画面だけが光っていた。

長谷は掲示板に書き込んだ。

「現場は不具合への対応だけで疲弊している。壊れたものを直すたびに、予算も人手も消えていく。この繰り返しから、どうすれば抜け出せる」

しばらくして、二つのレスが来た。

最初は、中性化だった。

「事後保全を続けていれば、建物は用途廃止に向かうしかない。壊れる前に直す『予防保全(長寿命化)』にシフトしろ。適切な時期に修繕すれば、建物を長く使え、LCCも抑えられる。国交省のガイドラインを見ろ」

二つ目は、見慣れないハンドルネームだった。

ノッカー。

「中性化の言うとおりだ。ひび割れの段階なら、表面補修やシール材の充填で済むこともある。爆裂してからでは、費用の桁が変わる」

長谷の手が止まった。

ノッカー――誰だ。

プロフィールを開く。

打診棒やテストハンマー、各種測定器を使い、外壁やタイルの浮き、構造体の劣化を診断する「叩き屋」。

投稿は、現場の劣化と補修に関するものばかりだった。その知識は、尋常ではない。

長谷の頭に、昨日の公民館が浮かんだ。

コンコン、コンコン。

石末がテストハンマーを振るい、音の違いだけで外壁の浮きを見つけた。

その姿と、ノッカーのプロフィールが重なった。

まさか。

いや――。

翌朝。

石末は営繕課で、いつものように図面を睨んでいた。

図面の脇に、石末のスマートフォンが置かれていた。

画面には、長谷が毎晩開いている掲示板が表示されている。

「石末さん。それ、昨夜の掲示板ですよね」

「何の話だ」

「ノッカー。打診棒で外壁を叩いて、浮きや劣化を見つける。石末さんが、いつも現場でやっていることです」

石末は答えなかった。

長い沈黙のあと、低い声で尋ねてきた。

「……お前が、爆裂か」

「そうです」

長谷は答えた。

「鉄筋が錆びて膨張し、コンクリートを内側から押し出して剥がす。廃墟で撮った爆裂の写真ばかり投稿していたら、そう呼ばれるようになりました」

二人は無言で見合った。

やがて石末が、小さく笑った。

長谷が初めて見る顔だった。

「予防保全に必要なデータは、俺の技で揃えてやる」

石末は、すぐに表情を戻した。

「ただし、俺はまだ、お前を信用したわけじゃない」

「それで十分です」

石末は再び図面に目を落とした。

この話のFM豆知識

(豆知識は準備中)

つづく

※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら